「草加宿」の版間の差分

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沿革・五街道の整備 内容追加、出典明記。
→‎五街道の整備: 傳馬継立について 追加。出典明記。
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== 沿革 ==
=== 五街道の整備 ===
[[慶長]]元年([[1596年]])、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年([[1602年]])、[[伝馬]]人足の設置および継立を義務づけた[[宿駅制度]]制度を設けた。奥州街道・日光街道<ref>伝馬千住から越ヶ谷間「継ぎ送り」とは、「江戸幕府一帯公用で旅をする人たち街道筋は沼地が多ために、その人たちの荷物を宿場ら宿場へと、次から次へリレー方式で受け継いで送ることを言った。このため各宿ではこれ荷物迂回し花俣(現在運ぶため東京都[[立区]][[花畑 (足立区)|花畑]])かと馬を常備することが義務づけ八条([[八潮市]])に出いた。[[古利根川]]と[[元荒川]]http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0217.htm 東海道自然堤防誘い 宿場沿って越ケ谷に至る経路を取っつい 人馬の「継ぎ送り」とはどうた。<brうことですか?]国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所(2016年5月4日配信)(2017年5月6日閲覧)</ref><ref>
草加宿は、人足25人、駅馬25頭の伝馬人足の設置および継立が義務づけられていた。(草加市史編さん委員会、『草加市史』通史編上、草加市、昭和61年、草加市史編さん委員会、『草加市史』資料編Ⅱ、草加市、昭和61年)</ref>。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都[[足立区]][[花畑 (足立区)|花畑]])から八条([[八潮市]])に出て[[古利根川]]と[[元荒川]]の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。<br />
[[千住宿]] -[[越ヶ谷宿]]間には宿場が無かったが、宿篠葉村の大川図書が中心となり新道開削が行われ、茅原を開き沼を埋め立てて、千住から越ヶ谷間をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。これが草加宿の基となったとされる<ref>草加市史編さん委員会、『草加市史』通史編上、草加市、昭和61年</ref><ref>草加市史編さん委員会、『草加市史』資料編Ⅱ、草加市、昭和61年</ref>。<br />
このルートが完成すると街道沿いに茶店や旅籠屋など旅人相手の商いを目指す人々が集るようになり、[[寛永]]7年([[1630年]])に草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ヶ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。