「藤堂高兌」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 久居藩主時代 ===
[[天明]]元年([[1781年]])4月2日に生まれる。[[寛政]]2年([[1790年]])10月29日、第11代久居藩主・[[藤堂高矗|高矗]]の養嗣子となり、養父が死去すると久居藩主となった。ただし幼少であったため寛政7年2月15日はじめは将軍[[徳川]]の[[藤堂八座]]の補佐を受けにお目見えする。久居藩は藩主の早世や本家の津藩主への転同年12月17日、従五位下左近将監に叙が多かったため、藩する。寛が安定化せずに混乱し8年4月18日財政も窮乏化し初めいたお国入りする許可を得る
 
藩主就任直後は幼少であったため、[[家老]]ような中[[藤堂八座]]の補佐を受ける。久居藩は藩主の早世や本家の津藩主への転任が多かったため、藩政が安定化せずに混乱し財政も窮乏化していた。成長した高兌は藩政改革を試みる。寛政9年([[1797年]])に「義倉積米」制度を制定した。これは、藩士の知行や扶持米のうち、100分の1を積み立てる貯金のようなものであった。そして高兌はこの資金を基に、藩内における新たな事業資金にしたり、経済的に窮乏している者に対しての貸付金にしたり、さらには[[藩校]]の運営資金や災害復興費などに当てた。父で津藩を継いでいた[[藤堂高嶷|高嶷]]もこれを助けている。他にも法令の整備、行政機構の改善、綱紀の引き締めなどを行なって、乱れていた藩政を立て直した。なお、「義倉積米」制度は[[廃藩置県]]まで継続され、最終的には11万6800両も積み立てられたが、長期にわたって継続することができたのは、高兌があくまで資金を公的に使い、私的に使うことを厳禁していたためであると言われている。
 
=== 津藩主時代 ===