「下関戦争」の版間の差分

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[[Image:Hamaguri rebellion.jpg|thumb|250px|left|禁門の変]]
<!-- 日本語の説明が「下関戦争日本側代表団」となっているが、攘夷実行日が6月25日であるため、6月末とする写真の日付との整合性が取れない。生麦事件賠償金交渉と開港場の閉鎖の通告の責任者だとすれば中央は小笠原長行か? [[File:ILN 3ministers.jpg|thumb| 日本側代表団、『イラストレーティッド・ロンドン・ニュース』1863年9月12日号。日本から6月末に打電された写真の複製画]]-->
文久3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]](1863年[[8月15日]])、前年に起きた生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めてイギリス艦隊が[[鹿児島湾]]([[鹿児島市]]の[[錦江湾]])に侵入。薩摩藩はこれに応じず、交対して宣布告することなく攻撃した。薩摩藩はかなだまし討ちによの善戦(薩摩側の民間人を含む死傷者9名に対してイギリス側の軍人死傷者63名する出した、[[鹿児島城|鹿児島城下]](焼失1/10)の藩の工場や民家へのなどへの大きな被害を受けた([[薩英戦争]])。しかし、これによりイギリスは薩摩の[[戦力]]の優秀さ側も民間人知り、薩摩との直接の和平含む死傷者9名結ぶことになる。この和平により薩摩はイギリスよりの情報や武器の入手が容易になり、薩摩は更なる軍備の充実に努めることになる出した
また、[[鹿児島城|鹿児島城下]](焼失1/10)の藩の工場や民家へのなどへの大きな被害を受けた([[薩英戦争]])。しかし、これによりイギリスは薩摩藩に圧力をかけ、幕府から離れていて都合が良かった薩摩藩に直接交渉し、事実上の傀儡政府とした。これにより薩摩藩は、イギリスの手先として軍備を拡張した。
 
一方、長州や薩摩の攘夷実行の現実を見た幕府は、[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]には中根一之允らを軍艦「[[朝陽丸]]」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]には「朝陽丸」を拿捕。さらに、[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]-20日には中根一之允らを暗殺した([[朝陽丸事件]])<ref>[[山口市]]文化政策課 「[http://www.city.yamaguchi.lg.jp/oouchi/yamaguchicity_histry/bakumatsu_human/12.html 幕末山口諸人往来 第12回 幕府の長州糾問使と朝陽丸事件 文久3年7~9月]」</ref>。