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== 経歴 ==
[[1994年]][[10月25日]]、神奈川・南足柄市体育センター、対[[ポイズン澤田JULIE|ポイズン澤田]]戦にてデビュー。
 
以後、[[ネットワーク・オブ・レスリング|NOW]](1994年)、[[新東京プロレス|東京プロレス]](1994年 - [[1995年]])、大日本プロレス(1995年 - )と、活躍の場を移してきた。
 
リングネームの改名歴は、本名でデビューの後、1996年8月に「竜司山川」と改名したがすぐに現在の「山川竜司」へ改名した。
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1995年には総合格闘技も経験。師匠格の[[桜田一男|ケンドー・ナガサキ]]がバーリトゥード修行にブラジルに渡った際には同行し、共に[[マルコ・フアス]]の道場で修業。滞在中の10月22日にはVALE TUDO BRAZIL OPENに出場。ムエタイのブンシマ・ローンと対戦、ギロチンチョークで敗退する。
 
[[1999年]][[5月30日]]新川崎大会で[[BJW認定デスマッチヘビー級王座]]を初載冠。
 
[[2000年]][[2月22日]]後楽園、[[金村キンタロー]]の持つ[[WEWハードコア王座]]に挑戦し勝利。その年の8月29日後楽園では、[[ジョン・ザンディグ|ザンディグ]]が保持していたデスマッチヘビー級王座にも挑戦したが、敗北を喫する。
 
=== 事故から復帰・休養へ ===
[[2001年]][[3月18日]]・[[博多スターレーン]]大会で試合中、[[ワイフビーター]]がエプロンから場外へのネックハンギングボムを狙った際、距離を誤りフロアに後頭部を強打、[[頭蓋骨骨折]]により、意識不明の重体にまで陥った。
 
療養期間を経て、同年[[12月2日]][[横浜アリーナ]]大会([[WEWハードコアタッグ王座|WEWハードコアタッグ]]&[[BJW認定タッグ王座|BJWタッグ]]両選手権試合・[[MEN'Sテイオー]]・[[関本大介]](BJWタッグ王者組)vs 山川・金村(WEWハードコアタッグ王者組))で復帰するも、[[後遺症]]による左半身麻痺と[[椎間板ヘルニア]]の併発で、思うような試合展開が出来ないばかりか、日常生活にも影響を及ぼしていた。特に、椎間板ヘルニアに至っては、腰を打ってMRI検査で発見されるまで、一切気付かなかったという始末。医師からも「ナメたらエラいことになっていた」とまで言われた。
 
実際、山川はそのような状態にまで陥っても、[[デスマッチ]]を最後までやりこなしていた時もあったが、あまりにも試合内容が不甲斐無く、リングネームを本名に強制変更されたり、「友人」と称するマスクマン「'''ミスター大日本'''」としてリングに上がったりとしているうちに、次第に容態が悪化。[[2004年]][[9月26日]]の[[後楽園ホール]]大会を最後に 1年間の休養を取ることになった。
 
休養後は北海道に戻り、[[2004年]][[12月1日]][[札幌市|札幌]]・薄野で[[スナックバー (飲食店)|スナック]]「'''薄野プロレスYAMARYU'''」を開店。その傍ら、体調を戻すため、トレーニングに励み、大日本の[[サッポロテイセンボウル|札幌テイセンホール]]大会開催時には、団体のPR活動も行っていた。
 
1年経過の[[2005年]][[10月14日]][[後楽園ホール]]を訪れたが、気持ちの整理がつかないこと、万全な体調ではないことなどを理由に、無期限へと切り替えることを発表した。
 
[[2006年]][[5月5日]]・[[横浜赤レンガ倉庫|横浜赤レンガ]]大会前。6月以降の[[桂スタジオ]]大会を実験的な大会と位置付け、新たにデスマッチファイターを公募する記者会見で、盟友シャドウWXから、「(山川が)[[桂スタジオ]]に出てくるのも一つの手ではないか」と発言。
 
これに奮起した山川は7月、[[札幌市|札幌]]の店を週末のみの営業とし、[[横浜市|横浜]]・鴨居の道場に泊まり込んでの練習を開始。
 
[[2006年]][[9月23日]][[越谷市|越谷]]・桂スタジオ大会にて、兄貴分と慕う[[金村キンタロー]]をパートナーに迎え、同期の[[黒田哲広]]・シャドウWXを相手に再起戦を行い、復帰を宣言。しかし、椎間板ヘルニアは完治していないため、実況席で見ていた統括部長(当時)・[[登坂栄児]]からは、「頂点を目指すレスラーとしては『NO』だ」と厳しい評価が下った。
 
10月の[[後楽園ホール]]大会で、[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]軍として黒田・[[田中将斗]]と組んだ金村から、関本に一回田中と組んでみるように提案した際、「ダッサダサで、もうどうしようもないけど山川もおる!」と参加をほのめかし、これを受けて[[10月29日]][[サッポロテイセンボウル|札幌テイセンホール]]にて金村・黒田と組んで、関本・[[佐々木義人]]・田中との6人タッグマッチに出場。この時、右肩手術のために長期欠場が決まっていた田中から、「お前も椎間板ヘルニアを治して第一線に戻れ」と提案された。
 
その後は北海道に戻り、大日本にはスポット参戦の形態を取ることとなる。[[2008年]]春からアジアンプロレスプロモーションの興行に参戦。9月、[[新木場1stRING]]大会(自身4年ぶりの東京での試合)に、12月には[[横浜文化体育館]]に参戦したが、どちらもデスマッチではなく、通常ルールでの試合となった。
 
[[2009年]][[8月19日]]新木場1stRING大会・8人タッグトーナメントにおいて、7年振りの[[蛍光灯]]デスマッチを2試合行った。しかし、その後は試合内容の悪さから、[[2010年]][[5月4日]]横浜文体・大日本15周年記念興行の参戦を最後に再び休養に入る。
 
=== 引退へ ===
[[2010年]]10月、登坂から引退を勧告され、引退に向けての練習を行うことを決定。2011年にはスナックを札幌から横浜へ移転し、横浜道場での練習を開始。
 
[[2011年]][[11月22日]]後楽園大会、休憩明けの挨拶にて、登坂社長から最終期限を「[[2012年]][[7月15日]]・札幌テイセンホール大会とする」と宣言。
 
[[12月6日]][[新木場1stRING]]大会にて復帰。ここから引退ロードとして、蛍光灯から有刺鉄線、ファイヤーデスマッチや月光闇討ちデスマッチなどをこなし、[[2012年]][[7月15日]]・札幌テイセンホール大会「蛍光灯+五寸釘ボードデスマッチ」をもって引退した。
 
=== 引退後 ===