「江利チエミ」の版間の差分

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しかし[[1982年]](昭和57年)[[2月13日]]午後、チエミは港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。{{没年齢|1937|1|11|1982|2|13}}。死因は[[脳血管障害|脳卒中]]と、[[吐瀉物]]が気管に詰まっての[[窒息]]([[誤嚥]])によるものだった。チエミは数日前から風邪を引き体調が悪かったところに[[ウィスキー]]の牛乳割りを呷り、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入った事が一因とも言われている。その前日は一昨日に行われた[[熊本県|熊本]]での和服商社主催のイベントから帰宅したばかりで、チエミが亡くなった当日の夜には北海道にてステージが組まれる予定が入っていた。
 
あまりの突然の死に、チエミの親友だった「三人娘」の美空ひばりと雪村いづみ、他[[清川虹子]]や[[中村メイコ]]らもショックを隠しきれずに号泣、チエミの葬儀の席でも深い悲しみに暮れていた。また、チエミの親友の杉良太郎は死の前年9月、杉の主演ドラマ『[[大江戸桜吹雪、八千両の舞]]』(日本テレビ)にチエミがゲスト出演していたことから、驚きを隠せなかったという。チエミの柩が玄関を出た[[2月16日]]は、奇しくも最期まで愛し続けていた高倉との結婚の際、花嫁衣装を着て実家の玄関を出たのと同じ日だった。その高倉はチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を贈り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという<ref group="注釈">以来高倉は[[2014年]]に83年の生涯を閉じるまで、毎年チエミの命日には人目を避けるように早朝に墓参し供花・本名を記した線香を贈り続けていた。</ref>。それから数週間後の[[3月3日]]、仕事関係者らによるチエミの音楽葬が行われた。
 
チエミが世を去る数日前には、[[2月8日]]に[[ホテルニュージャパン火災]]と、翌[[2月9日]]には[[日本航空350便墜落事故|日航機羽田沖墜落事故]]という、二つの大惨事が連日にわたり発生していた。当時の報道・マスコミはニュージャパン火災と日航機墜落事故で特別報道態勢を敷いており、テレビ各局は混乱に陥っていたため、チエミの急逝のニュースはその直後には予想以上に小さな扱いとなり、数日後に改めて追悼番組や特集などが組まれた。