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'''香川 鉄蔵'''(かがわ てつぞう、[[1888年]][[2月15日]] - [[1968年]][[12月9日]])は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦後にかけて[[大蔵省]]に[[嘱託制度|嘱託]]として勤務した人物。[[セルマ・ラーゲルレーヴ]]『[[ニルスのふしぎな旅]]』の日本語訳者としても知られる。
 
== 経歴 ==
[[1888年]]([[明治]]21年)、[[東京市]][[浅草区]]の区会議員を務める香川直吉の三男として生まれる。1892年に父・直吉が49歳で死去、長男の初太郎は旧制中学の英語教員を勤め家計を助けたが1905年に30歳で死去している。
 
鉄蔵は兄や姉の支援を受け、[[1906年]]に[[東京高等師範学校]]附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])を卒業。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[東京帝国大学]][[文学部]]哲学科に進み[[心理学]]を専攻するが、大学卒業直前の[[1911年]]12月に自主退学した。
 
香川は、友人を頼って全国各地を放浪するなかで新潟県に住む[[水戸高等学校 (旧制)|水戸高校]]講師だったドイツ人グルデントに教えを受け、スウェーデン文学に出会い[[セルマ・ラーゲルレーヴ]]の作品に感銘を受け、『''Nils Holgerssons underbara resa genom Sverige'' (ニルス・ホルゲションの素晴らしきスウェーデン旅行)』第1部の[[スウェーデン語]]原書を日本語訳し[[1918年]]([[大正]]7年)に[[大日本図書]]から『飛行一寸法師』の名で刊行した。これは『[[ニルスのふしぎな旅]]』の初日本語訳とされる。
 
[[1919年]]7月、[[大蔵省]]臨時調査局金融部嘱託となり欧米諸国の財政調査に当たった。1923年に伊藤八重と結婚した。
 
[[1938年]]([[昭和]]13年)、50歳で大蔵省を辞し「[[満州国]]」に単身赴き[[満州国国務院]]に入り、[[大同学院]]で教鞭を執った後、[[新京法政大学]]教授となる。仕事の合間に満州各地を調査し[[1940年]]に[[ダイヤモンド社]]から『満洲で働く日本人』を刊行した。[[1941年]]1月、帰国し[[東京府]][[北多摩郡]][[立川市|立川町]]の自宅に戻り国務院企画処嘱託・東京在勤となる。
 
[[1944年]]2月、大蔵省に戻り外資局嘱託となる。第二次世界大戦後の[[1946年]]4月に主計局、[[1949年]]に理財局に移った。
[[学陽書房]]から自訳の『ニルスのふしぎな旅』を新たに刊行。[[1950年]]7月、[[国立国会図書館]]参事となり、国際業務部外国資料課長となった。[[1951年]]8月末に国立国会図書館参事を辞し[[開国百年記念文化事業会]]理事となり、『明治文化史』、『日米交渉史』の刊行を図った。[[1957年]]5月に大蔵省から防衛庁に移り軍事関連の文献の翻訳に従事した。また、1957年から[[1960年]]まで日本ラゲルレフ会を組織した。
 
死後[[1982年]]に[[偕成社]]から『ニルスのふしぎな旅』の完訳が全4巻で刊行された。
 
== 著書 ==
*満洲で働く日本人 ダイヤモンド社 1941
*明治文化史 第10巻 趣味娯楽編 開国百年記念文化事業会 洋々社 1955
*北の光-セルマ・ラーゲルレーヴ 香川節 1979.11(瑞典文庫)
 
== 翻訳 ==
*自我と意識 ヰリアム・ヂエイムス [[福来友吉]]共訳 弘学館書店 1917
*飛行一寸法師 セルマ・ラーゲルレーヴ 大日本図書 1918
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*ニルスのふしぎな旅 1-4 ラーゲルレーヴ 香川節共訳 偕成社文庫 1982.12(偕成社文庫)
 
== 参考文献 ==
* 香川節「父香川鉄蔵のこと」 『植民地文化研究』第2号、植民地文化研究会、2003年
 
== 関連文献 ==
* 香川鉄蔵先生追悼集刊行会『香川鉄蔵』 1971年
 
== 関連項目 ==
* [[筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧]]
 
== 外部リンク ==
* [http://chawantake.sakura.ne.jp/miscellaneous/KagawaTetsuzo.html 西田幾多郎に本を贈った香川鉄蔵という人]
 
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