「ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)に仕えていたが、[[1419年]]に無怖公が派閥抗争で[[暗殺]]されると実行犯だったアルマニャック派に鞍替えした。[[1416年]]に[[ベリー公]][[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]]の未亡人でオーヴェルニュ兼ブローニュ女伯[[ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯)|ジャンヌ2世]]と政略結婚したが、[[1424年]]に子供が無いまま死去したジャンヌの領地は従叔母の[[マリー1世 (オーヴェルニュ女伯)|マリー]]に譲られラ・トレモイユは領地を手に入れられなかった<ref>樋口、P103。</ref>。
 
[[1427年]]にリッシュモンと[[ヨランド・ダラゴン]]の要請でシャルル7世の寵臣[[ピエール・ド・ジアック]]([[:fr:Pierre de Giac|fr]])と[[カミーユ・ド・ボーリユ]]([[:fr:Le Camus de Beaulieu|fr]])の2件の暗殺に協力、リッシュモンを利用して排除した寵臣の後釜に座りシャルル7世の信頼を得ると、ジアックの未亡人カトリーヌ・ド・リール=ブシャールと再婚、用済みとなったリッシュモンを翌[[1428年]]に宮廷から排斥して実権を握った。のみならず、所領に引きこもっていたリッシュモンへ私兵を用いて攻撃、寵臣2人がしていた軍資金横領にも手を染め、[[イングランド王国|イングランド]]軍が南下してもお構いなしにリッシュモンと紛争を続けていた。その一方で自分の派閥強化も試み、リッシュモンを失ったヨランドが穴埋めに登用した[[ジャン・ド・クラン]]と孫の[[ジル・ド・レ]]を遠縁ということもあって手元に置き、彼らを軍事上の手駒として重用した<ref>エチュヴェリー、P155 - P167、清水、P76 - P80、樋口、P103 - P104、P129 - P130。</ref>。