「特攻兵器」の版間の差分

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日本陸軍では、1944年春、陸軍中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見が一致し、四式重爆撃機と99式双発軽爆撃機を改修して特攻兵器にすることを決定した<ref>戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁</ref>。
 
1944年5月体当たり爆弾[[桜弾]]の開発のため、第三陸軍航空技術研究所に特別研究班を設け、[[正木博]]所長が統括した<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給459-460頁</ref>。
 
1944年6月25日元帥会議で[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。陸軍の[[参謀本部]]総長[[東條英機]]、海軍の[[軍令部]]総長[[嶋田繁太郎]]はすでに考案中であると答えた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p34-39</ref>。
 
サイパン島失陥直後の1944年7月7日、陸軍参謀本部以下関係部門の幹部将校が大本営近くの市ヶ谷で開いた秘密会議で体当たり攻撃の導入論が強まり、特攻兵器の開発が促進された。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修に着手する<ref>『特攻隊振武寮』p.55</ref>。
 
1944年9月5日陸海民の科学技術の一体化を図るため、陸海技術運用委員会が設置され、研究の一つに[[桜弾]]も含まれていた<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給457頁</ref>。
 
1944年11月13日、特攻兵器に改修された四式重爆撃機による富嶽隊が陸軍初の特攻を行う。
 
1945年1月20日航空特攻兵器「剣」の試作研究が開始する。
 
1945年(昭和20年)2月「夕号」の試作研究が開始する。
 
=== 日本海軍 ===
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特攻兵器の開発は1944年2月の[[マーシャル諸島|マーシャル]]の陥落、[[トラック島空襲]]をきっかけとして<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327頁</ref>、[[黒木博司]]大尉らから中央へ要望されていた[[人間魚雷]]の試作命令(1944年2月26日)から始まる<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326頁</ref>。脱出装置を予定して開発が始まったが、結局実現はしなかった。
 
1944年4月4日[[黒島亀人]]軍令部二部長が「作戦上急速実現を要望する兵力」を提出する。体当たり戦闘機、装甲爆破艇([[震洋]])、大威力魚雷([[回天]])の特攻兵器を含んだ提案であった。軍令部はそれを検討した後、[[震洋]]、[[回天]]、[[海龍_(潜水艇)|海龍]]の水中特攻兵器の緊急実験を海軍省側に要望した。[[艦政本部]]は仮名称を付して担当主務部を定め特殊緊急実験を開始する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327</ref>。
 
1944年6月25日元帥会議で[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。陸軍の[[参謀本部]]総長[[東條英機]]、海軍の[[軍令部]]総長[[嶋田繁太郎]]はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の[[嶋田繁太郎]]は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日[[大森仙太郎]]が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p34-39</ref>。
 
1944年7月21日、軍令部総長[[嶋田繁太郎]]より連合艦隊司令長官[[豊田副武]]へ発令された大海指四三一号に特殊奇襲兵器の名前で「[[回天]]」の採用が記載される<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p212-216</ref>。
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1944年8月、[[大田正一]]少尉ら1081航空隊の志願・要望があり、航空特攻兵器である[[桜花 (航空機)|桜花]]の試作研究が決定する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p331-333</ref>。
 
1944年9月13日海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327-328頁</ref>。
 
1944年10月25日、現地で簡単な改修を施した[[零式艦上戦闘機]]を特攻兵器として利用し、日本初の特攻である[[神風特別攻撃隊]]が行われた。
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== 運用 ==
日本海軍初の特攻1944年10月20日零戦を特攻兵器に改修したもの利用された。改修は、もともと反跳爆撃訓練が行われていたため250キロ爆弾搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするため風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば特攻使用に問題にするほどの工作は不要だった<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦136頁</ref>。
 
日本陸軍初の特攻で用意された特攻兵器に改修された[[九九式双発軽爆撃機]]、[[四式重爆撃機]]は、機首に導爆装置をもうけ衝突すると爆弾が爆弾倉の中で爆発する。使用された爆弾は海軍80番通常爆弾を99式に1発、4式に2発装備した。通信、酸素以外取り外し単座操縦に変更し操縦室は風防ガラス以外開口部が閉鎖された。この最初の改修は体当たりしなければ爆弾投下ができなかったが後に手動の鋼索を取りつけてそれを操縦席で引けば電磁気が作動し緊急時に爆弾が投下できるようになった<ref>戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給457頁</ref>。日本本土上空での[[B-29_(航空機)|B-29]]迎撃には、[[機銃]]を外し軽量化して性能向上を図った陸軍の[[二式単座戦闘機|二式単戦]]、[[三式戦闘機|三式戦]]、[[二式複座戦闘機|二式複戦]]などの無武装機が、体当たり特攻用に改造された。