「ジャン=ミシェル・バスキア」の版間の差分

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[[プエルトリコ]]系移民の母親と[[ハイチ]]系移民の父親の間に生まれ、幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていた。17歳の頃から地下鉄、[[スラム]]街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。活動を続けるうちに高校を中退したバスキアは、[[Tシャツ]]やポストカードを売りながら生計を立てていた。徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、[[キース・ヘリング]]、[[バーバラ・クルーガー]]の助力でニューヨークで個展を開くようになった。また、絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとなっている。一時結成していたノイズバンド「GRAY」の名は交通事故のさい母親が病室に持ち込んだ本が由来している。
 
[[1983年]]には[[アンディ・ウォーホル]]と知り合い、作品を共同制作するようにもなる。[[1987年]]のウォーホルの死まで2人の互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは徐々に[[ヘロイン]]などの[[薬物依存症]]に陥り、[[妄想癖]]が見られるようになった。そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていった。
 
[[1988年]]、ヘロインの[[オーバードーズ]]により27歳で死去。