「哀帝 (漢)」の版間の差分

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漢書と後漢書の違い
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[[陽朔]]2年([[紀元前23年|前23年]])、父の定陶恭王[[劉康 (前漢)|劉康]]が薨去したため3歳で王位を継承した。祖母の傅氏(元帝の昭儀)と生母の丁氏が[[趙飛燕|孝成皇后]]に賄賂を贈り、18歳の時に伯父・[[成帝 (漢)|成帝]]の[[皇太子]]となった。[[綏和]]2年([[紀元前7年|前7年]])に成帝が崩御すると、孝成皇太后の後楯で19歳で即位した。
 
史書によれば哀帝は[[同性愛|男色]]を好み、特に寵愛した[[董賢]]に惜しみなく財宝や称号を与え、[[元寿 (漢)|元寿]]元年([[紀元前2年|前2年]])12月には[[大司馬]]に昇進させた。さらに、董賢の妻や妹にまで特権を与えたのみならず、[[王コウ|王{{lang|zh|}}]]に反対されて取りやめたものの、董賢に[[禅譲]]しようとまでも考えていた。
 
亡父劉康には「恭皇」を追[[諡]]、また養母に当たる皇太后趙氏、養祖母太皇太后王氏([[王政君]])とは別に、実母の丁氏に帝太后、実祖母の傅氏には皇太太后を追諡している。
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政治面では、失敗に終わったが王侯や一般人が所有する田地や奴婢の制限を検討し、[[任子]]の令を廃止するなどの改革を計画した。また、丞相を廃止し[[三公]]制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出している。国勢の衰退を自覚し、自ら「陳聖劉太平皇帝」を称し天命を更新しようとしたが、2ヶ月で元に戻している。
 
哀帝は即位後に王莽を罷免、[[丞相]]である[[朱博]]、[[王嘉]]を自殺させるなど臣下に対し厳しい態度で臨み、[[武帝 (漢)|武帝]]・[[宣帝 (漢)|宣帝]]の手法を採用しようとしたが、元寿2年([[紀元前1年|前1年]])6月、25歳で崩御した。嗣子がなかったため、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、璽綬は太皇太后王氏は詔を発して董賢を罷免し璽綬も奪った。董賢はその日のうちに自殺した<ref>『[[王莽漢書]]』平帝紀・佞幸伝による。『[[後漢書]]』では王閎が帯剣して董賢から璽綬をわれい、太皇太后に渡したとする</ref>。太皇太后は[[王莽]]を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。<!--なお璽綬を奪われた董賢とその妻はその日のうちに自殺した。-->
 
== 故事 ==
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=== 子女 ===
女子(傅皇后の娘。『漢書』王莽伝上に見える)
 
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
 
{{前漢の皇帝|前7年 - 前1年|第12代}}