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== 略歴 ==
文武天皇元年([[697年]])8月、[[持統天皇]]の譲位により即位直後の文武天皇の夫人となる(『[[続日本紀]]』)。なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘も[[嬪]]となっている。宮子が文武夫人となった背景には、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている阿閉皇女([[元明天皇]])付き女官の[[県犬養三千代]]の存在があったと考えられており、それまで少壮官僚であった不比等は文武即位に伴い中央政界に台頭している<ref>[[義江明子]]『県犬養橘三千代』2009年</ref>。ただし、夫人や嬪の制度化は大宝令であったとする立場からは、宮子の夫人号を後世の脚色で、宮子・紀氏・石川氏は当初は「妃」で令制導入に基づいて嬪とされ、後に皇子を生んだ宮子が夫人とされた<ref>遠藤は『続日本紀』慶雲4年4月壬午条の食封改訂の記事で嬪の加封記事はあっても夫人のそれはなく、この段階では文武天皇の夫人は存在せず、宮子の身分は嬪であっとみる。</ref>と解する見方もある<ref>遠藤みどり「令制キサキ制度の成立」『日本歴史』754号(2011年)/改稿:「令制キサキの基礎的研究」『日本古代の女帝と譲位』塙書房、2015年 ISBN 978-4-8273-1278-2</ref>。
 
大宝元年(701年)、首(おびと)皇子(後の[[聖武天皇]])を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。文武や父不比等等肉親の死を経て、723年に[[従二位]]に叙され、首皇子が即位した翌724年には[[正一位]]、大御祖(文書では[[皇太夫人]])の称号を受けたが病は癒えず、[[737年]]にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位([[孝謙天皇]])した[[749年]]には[[太皇太后]]の称号を受け、754年に崩御した。享年70前後と推定される。