「道光帝」の版間の差分

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嘉慶年間より[[イギリス]]からの[[アヘン]][[密輸]]が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもその害は甚だしいものがあった。またアヘンの輸入増加によりそれまで清の大幅な黒字だった対英貿易が赤字に転落し、国内の[[銀]]が国外へ流出する事で国内の銀相場は高騰した。当時の清では日本の[[三貨制度]]と同様に[[銀貨]]と[[銅銭]]が混用されていたため、物価体系に混乱を来した。例えば徴税は主に銀で行われていたため、銭貨で見ると実質的な増税となった<!-- 単純な銀本位制であれば、銀の高騰はデフレを意味するはず。 -->。
 
道光18年([[1836年]])、道光帝は[[林則徐]]を[[欽差大臣]]に任命し、アヘン密輸取締りを命じた。翌年、林則徐は断固たる態度で禁輸にみ、商人たちのアヘンを没収しこれを焼き払った。道光22年([[1840年]])、怒ったイギリスのアヘン商人は[[広州市|広州]]を攻撃し、イギリス本国も艦隊を出して清を攻撃した([[アヘン戦争]])。
 
アヘン戦争に大敗し、屈辱的な[[南京条約]]を結ばされた清だが、その後イギリスだけに美味しい思いをさせる事は無いと思った[[フランス]]に[[黄埔条約]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[望厦条約]]を結ばされる事になった。これ以降の清は外に[[帝国主義]]の植民地活動を、内に[[軍閥]]による権力奪取を心配せねばならなくなった。