「李子通」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[東海郡]]丞県(現在の[[山東省]][[棗荘市]])の漁民の子として生まれた。[[大業]]末年、李子通は長白山の賊の[[左才相]]の下に身を寄せた。李子通は仁愛で知られ、帰順する者が多く、半年もたたずに一万人あまりを集めた。左才相にその名声を妬まれたため、その下を離れて[[淮水]]を渡り、[[杜伏威]]に合流した。隋将の[[来整]]に敗れて海陵(現在の[[江蘇省]][[泰州市]])に逃れ、[[将軍]]を自称した。大業11年([[615年]])に楚王を僭称した。
 
大業14年([[618年]])に[[宇文化及]]が[[煬帝]]を殺した後、[[揚州市|江都]]太守の[[陳稜]]が江都を守っていた。李子通が江都を攻撃したため、追いつめられた陳稜は[[沈法興]]と[[杜伏威]]に救援を求めた。李子通の部下の[[毛文深]]が沈法興と杜伏威のあいだを離間し、2勢力が牽制しあっている隙に、李子通は江都を奪取した。皇泰2年([[619年]])、江都で皇帝を称し、国号を'''呉'''、元号を[[明政]]と定めた。[[丹楊]]に拠った[[楽伯通]]を降して、尚書左僕射に任じた。また沈法興を破って晋陵を奪い、[[李百薬]]をはじめとした江南の[[士大夫|士人]]の多くを帰順させた。