「メアリー (スコットランド女王)」の版間の差分

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エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局[[1587年]][[2月8日]]、フォザリンゲイ城([[:en:Fotheringhay Castle|en]])のグレートホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、[[アルマダの海戦]]([[1588年]])に繋がった。
 
このようにメアリー自身は祖国を追われ、イングランドで刑死したが、その子ジェームズはスコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせ継いだ。以後スコットランドとイングランドは[[同君連合]]を形づくり、18世紀の[[グレートブリテン王国]]誕生の端緒となった。終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、[[グレートブリテン]]王、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|連合王国]]の王は、すべてメアリーの直系子孫である。
 
== 補足 ==