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当時のムガル帝国はすでにデリー周辺を支配するだけの小勢力となり、シク教国やマラータ族、ラージプート族を制圧して[[イギリス東インド会社]]の勢力も増大していた。そんな中、宮廷では[[ウルドゥー語]]を用いた文芸活動が流行り、ムガル皇帝たちもまたウルドゥー語で詩を書くことにはまっていた。アクバル・シャーも例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送ったとされる。
 
ムガル帝国の存在が形骸化する一方で、イギリス東インド会社は確実に勢力を増大させ、[[1818年]]には帝国にとって長きにわたり目の上のたんこぶとなっていた[[マラータ王国]]を滅ぼした。いよいよ20年後にはムガル帝国は帝国自体にとって、ひいてはインド攻撃民族全体にとっての致命傷を負った矛先が向けられることになる。ヒンドゥーの勢力と列強の勢力が入り乱れた[[1837年]]、帝国の権威を回復する術も見当らず1837年にアク、77歳で死亡。子の[[ハードゥル・シャーは77歳で死去した2世]]、まさかその20年後に王朝が「あのイギリスの力によって」滅ぼされるとは思ってもまま引き継なかったことろう
 
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