「ジョルジュ・サルマナザール」の版間の差分

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== 出自 ==
本名と誕生年の正確な出自は不明<ref name="y1">吉田(1971, 1)</ref>だが、後の回想録によれば[[1679年]]に南フランスで生まれたとしている。具体的な出身地は明かしていないが、後にサルマナザールのフランス語には[[ガスコーニュ]]地方の訛りが指摘されている<ref name="y6">吉田(1971, 6)</ref>。サルマナザールは16歳まで[[イエズス会]]の[[修道院]]で教養を学び、[[ラテン語]]等の語学に秀でた才能を見せた<ref name="y6">吉田(1971, 6)</ref>。しかしサルマナザールは職に恵まれず、家庭教師などをしていたがこれも長続きしなかった。そのため修道士の服を盗みだし、托鉢を受けながら親族の住む[[ドイツ]]を放浪した。しかしあるとき、[[東洋人]]の特徴を伝え聞いていたサルマナザールは、小柄であり黄色い肌という特徴に自分との共通点を見い出した<ref name="k14">桐生(1998, 14)</ref>。試しにキリスト教に改宗した[[日本人]]を演じてみたところ、サルマナザールは信心深い人々から多額の施しを獲得した。実際のところ、サルマナザールは小柄ではあったが[[黄色人種]]と比べると肌は白く、顔立ちも彫りの深い西欧人そのものだった<ref name="k13">桐生(1998, 13)</ref>。その上、サルマナザールは日本を訪れたどころか、日本に対する知識はほとんど持っていない。しかし当時、ほとんどの西欧人は東洋に無知であり、サルマナザールの詐称はドイツ滞在中は誰の疑問も招かなかった。サルマナザールは周到に、日本のパスポートまで偽造している<ref>当時の日本は[[徳川綱吉]]の[[元禄]]時代</ref>。ただし、キリスト教に改宗してローマに向かう日本人を演じている以上、同じ場所にはとどまれず、浮浪者同然の体で[[リエージュ]]に辿りつく。困窮したサルマナザールはこの地で[[オランダ軍]]に入隊し、そこでも改宗した日本人を名乗った。この兵役の余暇にサルマナザールは『台湾誌』の原型となる構想をまとめている<ref name="y8">吉田(1971, 8)</ref>。しかし卓越したラテン語を操り、所属する中隊内でも宗教学、論理学で随一の知識を持つ「日本人」は目立ちすぎた。部隊がオランダの[[スロイス]]に駐屯した[[1702年]]、同地の市長とカトリックの司祭からサルマナザールは呼び出される。その審問の場には、スロイスに駐屯していたスコットランド連隊の[[従軍牧師]]ウィリアム・イネスもいた<ref>当時、イギリスとオランダは[[名誉革命]]の経緯から同じ元首によって統治されていた</ref>。この審問の席で、サルマナザールは言葉巧みに追から逃れるが、ウィリアム・イネス牧師のみがサルマナザールの虚偽を見破っていた<ref name="y9">吉田(1971, 9)</ref>。イネス牧師はサルマナザールに対し、過去にカトリックの宣教師が滞在して知識を得ている日本人ではなく、より知られていない台湾人と名乗ることを勧める。また[[カトリック|旧教徒]]に捕らわれて改宗を強制されたが応じず、殺されそうなところをイネスに救われて[[プロテスタント]]に改宗したという筋書きまで描いて見せた<ref name="y9">吉田(1971, 9)</ref>。
 
== ロンドン時代 ==