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[[ファイル:LT-2002-10litų-Klaipeda-b.png|thumb|left|250px|[[リタス]]記念硬貨:クライペダが描かれている]]
 
第二次世界大戦中、[[1944年]]末から[[1945年]]にかけて連合軍の勝利が目前となった頃、戦闘が近づくにつれてドイツ人住民は引き揚げを余儀なくされた。1945年[[1月28日]]、クライペダはソビエト[[赤軍]]に占拠された。メーメル地域は[[東プロイセン]]の他の地域とは違い[[カリーニングラード州]]の一部とはされず、[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]に編入され、[[リトアニア|リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]領'''クライペダ'''となった。この地域に残っていたドイツ系」住民は、シベリアに送られるかドイツへ追放されるなどした。
 
ソビエトは、[[バルト海]]東岸の[[不凍港]]であるクライペダをヨーロッパ地域最大の漁業地域、[[ソビエト海軍|海軍]]の拠点にした。[[1950年]]頃までに、[[ソビエト連邦]]の海港として近代的な大造船所や漁港が再整備され、[[1950年代]]末までに人口は戦前の2倍にふくれあがり、そして[[1989年]]には20万3000人に達した。第二次世界大戦の影響から、ほとんどすべての住民は[[ロシア]]、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]そしてリトアニアといった地域から流入していた。はじめは[[ロシア語]]話者が市政を担っていたが、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の死後はリトアニアから他より多く人が集まったため[[リトアニア人]]が最も多い民族となった。とはいえそれでも、リトアニアで人口10万人を超える都市の中ではクライペダが最もロシア語を母国語とする人の割合が大きい。