「磯野小右衛門」の版間の差分

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米相場での勝負は続け、26歳の時に巨利を得る
 
明治維新後は、取引の禁止されていた堂島米市場の再興に尽力、明治四年(1871年)に[[堂島米会所]](後の[[堂島米商会所]] 現在の大阪堂島商品取引所)を創設、
初代頭取となる
 
明治11年(1878年)の大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)設立に際しては、[[五代友厚]]らとともに発起人となり、
その後明治24年([[1891年]])7月より明治27年([[1894年]])3月にかけて大阪商業会議所4代目会頭をつとめた。
 
明治16年(1883年)には、大阪株式取引所の頭取に就任
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有馬鉄道株式会社の発起人となり、大正4年には、三田‐有馬間を蒸気機関車で開通させるなど関西経済圏の発展に尽力した人物
 
また孫(磯野良吉の娘の道子は、甲陽中学で甲子園に、慶應義塾大学野球部で活躍し、野球殿堂博物館の戦没野球人モニュメントに刻まれている[[九里正]]を産んでいる。
 
奇縁というべきか、同じく孫の磯野三郎(磯野良吉の次男、磯野三郎道子の兄弟)は、1915年(大正4年)現在の夏の甲子園全国高等学校野球選手権大会の第一回大会(全国中等学校野球大会 当時は大阪豊中球場にて開催)の優勝校 京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)のメンバーの一人である
 
磯野小右衛門の玄孫には、アデコ株式会社(スイス上場の世界最大の人事人財企業の日本法人)の元社長の[[奥村真介]]は、磯野小右衛門の玄孫(母方)にあたがい
 
磯野小右衛門は、[[井上馨]]の娘であった'''聞'''('''ぶん''')を養女にしたが、'''聞'''は後に井上姓に戻った。