「7月20日事件」の版間の差分
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午後0時32分、爆弾の起爆装置を作動させた鞄を持って、シュタウフェンベルクが会議場に入った時には、すでに会議は始まっていた。午後0時37分頃、爆弾入り鞄を作戦会議場の巨大なテーブルの下に押し入れ、ベルリンへ電話をかける名目で会議場を後にした。午後0時42分、轟音と共に爆弾は炸裂し、会議室は破壊された。
爆発により、[[速記者]]ハインリヒ・ベルガー( Heinrich Berger)は両足を失いほぼ即死。[[プロイセン参謀本部|陸軍参謀本部]]作戦課長・総統副官[[ハインツ・ブラント]]大佐は片足を失い、空軍参謀総長[[ギュンター・コルテン]][[上級大将]]は腹部に重傷を負い二人とも2日後に死亡。総統副官の[[ルドルフ・シュムント]]少将は、腰部の重傷で10月1日に死亡。残りの参席者も重軽傷を負った。ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷したが
=== 暗殺失敗の原因 ===▼
当日の気温が高く、地下会議室で行われる予定の作戦会議は地上の木造建築の会議室で行われ、窓も開け放され、仕掛けた爆弾の威力を削ぐ結果となった。更に会議の開始が直前になって30分早まったため、用意していた2個の爆弾のうち1個しか時限装置を作動できなかった。シュタウフェンベルクは爆弾が入った鞄を、会議用テーブル下のヒトラーに近い位置に置いたが、総統副官のブラント大佐はその鞄を邪魔に感じ、それを木製脚部の外側へ移動させた。その偶然の動作に加えてテーブル脚部が盾となり、ヒトラーは爆風の直撃を免れた。▼
=== 「ヴァルキューレ」作戦発動 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1970-097-76, Hitler-Attentat vom 20. Juli 1944.jpg|thumb|right|200px|爆発現場を訪れたヒトラーとムッソリーニ]]
午後1時13分頃、シュタウフェンベルク大佐とヘフテン中尉は、ヒトラー死亡を確信しつつ、ベルリンへ飛び立った。
午後3時50分頃、2人が到着する前に、[[アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム]]大佐が、「ヴァルキューレ」発動を各軍管区に[[テレタイプ端末|テレタイプ]]で発令していた。命令にはヴィッツレーベン元帥が署名、総統の死亡と非常事態宣言、彼が国防軍総司令官になった旨伝えていた。
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21日午前1時、ヒトラー総統の演説がラジオで放送された。ヒトラー自ら爆破事件の経緯を説明したことで、彼の生存は明らかとなり、事件は完全に終息した。
暗殺に失敗した原因として有名なのは以下である。
#当日の気温が高く、密閉空間である地下会議室で行われる予定の作戦会議は地上の木造建築の会議室で行われることになった。さらに気温の関係で、窓も開かれたため、これが爆風の逃げ道となり、仕掛けた爆弾の威力を削ぐ結果となった。
#会議の開始が直前になって30分早まったため、用意していた2個の爆弾のうち1個しか時限装置を作動できなかった。
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そのため、人為的要素ではない1が解決されれば、暗殺が成功したと指摘する声があった。そんななか、[[怪しい伝説]]という番組で1の点が検証された。番組内では、地下室の再現はできなかったものの、密閉空間の再現としてコンテナを代用し、2と3の内容は変えずに爆破実験が行われた。その結果、史実の地下室より有利な状況にも関わらず<ref>地下室に比べコンテナの方が面積が狭い。</ref>、ヒトラーは死亡には至らなかった。そのため、番組の結論としては1の要素より、2と3の要素の方が影響が大きいとまとめられている。
実際、副官のブラントが鞄を動かしたことで爆風の直撃を受けたと思われる人物が即死ないし重傷を負ったことがこの結論を補強している。
== 粛清 ==
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