「松平忠輝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
51行目:
[[元和 (日本)|元和]]2年(1616年)4月、家康が死去した。家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は[[駿府]]まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。『[[徳川実紀]]』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。
 
元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ、[[伊勢国]][[朝熊山|朝熊]]に流罪とされた。生母・茶阿局は、家康の側室の[[阿茶局]]や[[高台院]]等取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。元和4年([[1618年]])には[[飛騨国]][[高山藩|高山]]に、[[寛永]]3年([[1626年]])には[[信濃国]][[諏訪藩|諏訪]]に流された。
 
そして[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])7月3日、幽閉先である諏訪[[高島城]](南の丸)にて死去した。92歳。息子である[[松平徳松|徳松]](母は竹の局)は放免の際に同行が許されず、更には岩槻藩主・[[阿部重次]]の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年([[1632年]])に住居に火をつけて自殺している(享年18)。