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{{記事名の制約|桓齮}}
'''桓 齮'''(かん き、生年不明 - 没年不明([[紀元前233年]]?、[[紀元前227年]] ?))))は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[秦]]の将軍。秦王政(後の[[始皇帝]])に仕え、秦の天下統一に貢献した。
 
== 経歴 ==
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[[紀元前236年]](始皇帝11年)、[[王翦]]・[[楊端和]]らと[[趙 (戦国)|趙]]の{{lang|zh|鄴}}を攻めて、先ずその周辺の9城を取る。桓齮はそこに留まり、王翦が一人で閼与、{{lang|zh|鄴}}などを落とす。
 
[[紀元前234年]](始皇帝13年)、趙の[[平陽]]を攻めて、敵将・[[扈輒]](こちょう)を殺し、首を斬ること10万であった。
 
[[紀元前233年]](始皇帝14年)、再び趙を攻めて、平陽と[[武城]]を平定した。[[宜安]]を攻めたが趙の[[大将軍]]・[[李牧]]に敗れた。[[戦国策]]の趙策四によれば、この敗戦で李牧に討たれたとされる<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref>。一方、史記では大敗したのち、敗走したと記されている<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1061 廉頗藺相如列傳第二十一]</ref>。
 
==桓齮、樊於期同一人物説==
史記においてはその後の経歴は不明であるため、中国の[[歴史家]]楊寛は、著書『戦国史』で敗戦の処罰を恐れた桓齮は[[燕_(春秋)|燕]]に亡命し、樊於期と名を改めたという説を唱えた。この人物は[[燕太子丹]]に庇護されたが、刺客・[[荊軻]]が秦に赴く際にその説得に応じて自刎し、首を差し出したとされる([[紀元前227年]])<ref>『史記』「刺客列伝」</ref>
 
==脚注==
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[[Category:秦代の人物]]
[[Category:紀元前3世紀生]]
[[Category:紀元前227233年没]]