「キーラ・キリロヴナ」の版間の差分
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キーラは活発で一本気な性格で、怒りっぽくさえあり、姉の[[マリヤ・キリロヴナ|マリヤ]]とは対照的だった。またキーラは知的で好奇心が強く、母と同じく芸術に関心があり、サン=ブリアックのアート・スタジオで働くようになった。キーラは親戚たちの住む[[イギリス]]宮廷をしばしば訪れた。キーラは適齢期になってもなかなか縁談がまとまらなかった。最初、キーラにはスペインの王位継承者[[アルフォンソ・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグ|アルフォンソ]]王子との縁談が舞い込んだが、アルフォンソがギリシアの[[ニコラオス・ティス・エラザス (1872-1938)|ニコラオス]]王子の娘たちに関心を寄せ始めたため、立ち消えになった。次にキーラは[[ルーマニア]]の大貴族コンスタンティン・スツ公爵と恋に落ちたが、キーラの従兄であるルーマニア王[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]は政治的理由から二人の結婚を許さなかった。
1938年5月4日、キーラはプロイセンの[[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1907-1994)|ルイ・フェルディナント]]王子と結婚した。ルイ・フェルディナントはドイツの[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム]]元皇太子の次男で、いずれプロイセン王家の家長となる予定だった。夫妻は7人の子供をもうけ、[[ブレーメン]]で暮らした。[[第2次世界大戦]]
戦後、キーラはニコライ2世の末娘[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシヤ・ニコラエヴナ]]大公女を名乗る女性[[アンナ・アンダーソン]]の主張の真偽をめぐる裁判に証人として呼び出された。キーラは1952年、アンダーソンを本物と信じる姑[[ツェツィーリエ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン|ツェツィーリエ]]元皇太子妃の強い勧めで、アンダーソンには一度だけ会っていた。キーラはアンダーソンをアナスタシヤだとは思えなかった。キーラはアンダーソンが「感じの悪い女」で「淑女ではない」し、アンダーソンがロシア皇族ならば体得しているはずの上流階級英語を話せないこともおかしいと思っていた。キーラが又従姉のアナスタシヤに最後に会ったのは7歳のときであった。キーラの叔父[[アンドレイ・ウラジーミロヴィチ]]大公はアンダーソンをアナスタシヤだと認めていたが、キーラの両親はどちらもアンダーソンはアナスタシヤではないと確言していた。
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