「園井恵子」の版間の差分

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翌日から園井は衰弱著しかった高山の看病に当たったが、自身も洗髪の際に髪が抜けるなど放射線障害の兆候があらわれていた{{sfn|資料集|1991|pp=293-297}}。8月15日に終戦が伝えられると、園井の安否を気づかい中井家を訪れていた内海明子に、「これで思いっきりお芝居ができるわ」と話し、目を輝かせていたという{{sfn|資料集|1991|pp=293-297}}。17日には母・カメに宛てて近況報告と向後の再起を誓う手紙を出したが、これが絶筆となる{{sfn|資料集|1991|pp=146-149}}。
 
[[ファイル:Sakura-tai 20150506-1.JPG|250px|right|thumb|広島平和大通りにある移動演劇さくら隊殉難碑の側面。名前が刻まれている。]]
その後は高熱、皮下出血、下血といった放射線障害の症状が次々と顕在化し、急激に衰弱。20日には床につき動くことができなくなった{{sfn|資料集|1991|pp=293-297}}。同日、高山象三が死去。翌21日、内海明子が氷で冷やしたガーゼを園井の顔に当てた際、「あー、気持ちいいわ」と呟いたのが最後の言葉となる{{sfn|資料集|1991|pp=293-297}}。同日夕刻、内海重典が宝塚歌劇団からの退職金を枕元に届ける。園井はそれを眼前にかざしたがすぐに意識を失い、中井夫妻、内海夫妻、象三の様子を見に来ていた高山夫妻、桜隊演出家の[[八田元夫]]が見守る中で息を引き取った{{sfn|資料集|1991|pp=293-297}}。満32歳没。16日には厳島で丸山定夫が、24日は東京で仲みどりが死去し、桜隊で被爆した9名全員が1カ月以内に命を落とす結果となった。
 
園井の遺体は翌日荼毘に付され{{sfn|資料集|1991|pp=293-297}}、9月1日に合同の告別式{{sfn|資料集|1991|p=251}}が行われたのち、岩手県盛岡市内の恩流寺に葬られた{{sfn|資料集|1991|pp=342-346}}。1952年には東京都目黒区の[[五百羅漢寺]]に桜隊の原爆殉難碑が建立され、1959年には広島市の[[平和大通り]]にも同様のものが建立された<ref name="ishibumi">江津(1980)pp.9-10</ref>。五百羅漢寺の碑には隊員の遺骨も少量ずつ納められている<ref name="ishibumi" />。
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ファイル:Monument of sakura-tai.JPG|目黒・五百羅漢寺にある桜隊原爆殉難碑。揮毫は徳川夢声による。
[[ファイル:Sakura-tai 20150506-1.JPG|250px|right|thumb|広島平和大通りにある移動演劇さくら隊殉難碑の側面。名前が刻まれている。]]
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== 人物 ==
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