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また床下や穴蔵の表層土には、数十年のあいだに微生物によって硝石が蓄積する。この土を集め、温湯と混ぜた上澄みに[[炭酸カリウム]]を含む草木灰を加えて硝酸カリウム塩を作り、これを煮詰めて放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して[[再結晶]]化すると精製された硝石となる。この方法を「古土法」といった。 フランスでは硝石採取人という職業があり、[[国王]]からあらゆる家に立ち入って床下の土を掘る特権を与えられていた。古土法による硝石は別名「ケール硝石」と呼ばれていたが、輸入物に比べて品質は低かった。生産量は年間300トンほどであり、需要を満たすには足りず、インド硝石などの輸入が大きな割合を占めていた。
 
[[フランス革命]]の時代になると、イギリスとの外交事情からインドからの輸入が困難になった。そのため、フランス革命以後になると、風通しのいい小屋に石灰や窒素を含む木の葉や石灰石・糞尿・塵芥を積み上げ、定期的に尿をかけて硝石を析出させる「硝石丘法」が発明される。硝石丘法は採取まで5年余りを要すが、土の2~3%もの硝石を得ることができたため、[[ナポレオン戦争]]の火薬供給に大きな役目を果たした。硝石丘法は他の国でも行われ、[[幕末]]の日本にも伝来している。
 
日本では、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[鉄砲伝来]]以降、[[黒色火薬]]の原料としての硝石を基本的に中国や東南アジア方面(インド)からの[[輸入]]に頼っていた。やがて古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法が発見される。また[[加賀国]]や[[飛騨国]]などでは「培養法」という、サクと呼ばれる[[草]]や石灰屑、[[蚕]]の尿を穴に埋め込んで、数年で硝酸カリウムを得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産するようになったが、この方法は軍事機密扱いされて産地は[[五箇山]]など秘密を保ちやすい山奥に限られ、他の地方に伝えられなかった。
 
日本では幕末まで、主に古土法で硝石を得ていた。古土法による生産量は少なかったが、江戸期に入って社会が安定したことにより火薬の需要が減り、国内での全需要を古土法で賄えるようになった。幕末期になると、日本にも硝石丘法が伝来した。しかし既に1820年ごろ、チリのアタカマ砂漠において広大な[[チリ硝石]]の鉱床が発見されており、安価なチリ硝石が大量に供給されるようになっていた。また火薬そのものも進化し、[[ダイナマイト]]など硝石を原料としない火薬に需要が移ったため、土から硝石を得る硝石生産法は、やがて全く姿を消した。
 
== 脚注 ==