「佐川一政」の版間の差分

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生まれた時は父親の手のひらに乗るほどの[[未熟児]]だった。出生1年後には[[腸炎]]を患い、[[カリウム]]と[[カルシウム]]の[[静脈注射]]で命を長らえるような状態であり、両親は果たして何歳まで生きられるかと心配したが、虚弱体質だったものの順調に成長していった。内向的な性格ということもあり、文学では『[[嵐が丘]]』『[[戦争と平和]]』などのほか、[[シェークスピア]]に興味を示し、音楽では[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]を愛した芸術少年だった。高校時代には[[白樺派]]に傾倒し、[[志賀直哉]]の『[[暗夜行路]]』に影響を受けて短編小説を書いたことがある他、紹介状も持たず[[武者小路実篤]]に会いに行き、武者小路の書斎で1時間ほど面談したこともある<ref>[http://chemlyn.xxxxxxxx.jp/sagawa/SMIGI0003.html 佐川一政『生きていてすみません』(水栄社)]</ref>。すでに小学生の頃、幼い子供を[[誘拐]]しては鍋で煮込んで食べる魔法使いの話を叔父から何度も聞かされ、人肉を食することに興味を抱いていたといわれ、高校時代には[[精神科医]]にたびたび相談したが、取り合ってもらえなかった。
 
こうした佐川の、一般常識から見れば異常な性癖はやがて表に表れることになる。和光大学在学時代には中年の[[ドイツ人]]女性宅に無断に入り、[[逮捕]]されたが、父親が支払った示談金により、[[告訴]]はされなかった。
 
[[1976年]](昭和51年)、関西学院大学大学院英文学専攻修士課程修了。
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==== フランス留学 ====
{{main|パリ人肉事件}}
[[1977年]](昭和52年)から[[フランス]]に留学し、[[1980年]](昭和55年)、[[パリ大学|パリ第3大学]][[大学院]]修士課程修了。引き続き同大学に在籍していた[[1981年]](昭和56年)[[6月11日]]、佐川は同大学の[[オランダ人]]女性留学生(当時25歳)が自室を訪れた際、彼女を背後から[[カービン]]で撃って殺害。[[屍姦]]の後、解体し写真に撮り、いくつかの部分の肉を食べた。
 
そのあと佐川は女性の遺体を遺棄しようとしているところを目撃されて逮捕され、犯行を自供したが、取調べにおける「昔、[[腹膜炎]]をやった」という発言を通訳が「[[脳膜炎]]」と誤訳したことから<ref>[[鈴木邦男]]『続・夕刻のコペルニクス』[[扶桑社]]、[[1998年]]、p.171</ref>、[[精神鑑定]]の結果、心身喪失状態での犯行と判断され、[[起訴]]処分]]となった。その後、アンリ・コラン[[精神病院]]に[[措置入院]]されたが、この最中にこの人肉事件の映画化の話が持ち上がる。佐川は劇作家の[[唐十郎]]に依頼するも、唐は佐川が望んでいなかった小説版「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)で第88回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞する。
 
==== 日本帰国後 ====
[[1984年]](昭和59年)に[[日本]]へ帰国し、精神病院である[[東京都立松沢病院]]に入院した。同病院での診察では、佐川は人肉食の性癖は持っておらず、[[フランス警察]]に対する欺瞞であったという結論であった。副院長の金子嗣郎は、“佐川は精神病ではなく[[人格障害]]であり、[[刑事責任]]を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないか”としている<ref>『Tokyo Journal』1992年9月号</ref>。[[日本警察]]もまったく同じ考えであり、佐川を逮捕して再び[[裁判]]にかける方針であったが、フランス警察が「不起訴処分になった者の[[捜査]]資料を引き渡すことはできない」として拒否した。
 
同院を15カ月で退院した佐川は、マスコミに有名人として扱われ、小説家になった。その頃、日本の病院と警察がそろって刑事責任を追及すべきという方針であったのに、フランス警察の方針により、それが不可能になったことから、社会的制裁を受けるべきだという[[世論]]が起きた<ref>『週刊マーダーケースブック』2号、[[デアゴスティーニ]]、1995年</ref>。両親もこの事件の結果、父親は会社を[[退職]]することになり、母親は神経症の病気を患ったという。
 
社会復帰後、[[1989年]]([[平成]]元年)の[[宮崎勤]]逮捕では、猟奇犯罪の理解者として[[マスコミ]]の寵児となり、忙しい時は月刊誌や夕刊紙など4紙誌に連載を持っていた<ref name="shincho">『[[週刊新潮]]』[[2006年]][[2月23日]]号。</ref>。印税収入だけで100万円に達した月があった他、講演やトークショーにも出演して稼いでいた<ref name="shincho"></ref>。また、1本30万円のギャラで[[アダルトビデオ]]に出演していたこともある<ref name="shincho"></ref>。しかし[[2001年]](平成13年)頃までにはほとんどの仕事が途絶え、生活に困って[[闇金]]に手を出すようになる<ref name="shincho"></ref>。「全然ぼくは反省しなくて、相変わらず[[白人]]女性と付き合う、それにはお金が要るというんで、初めのうちは親父の[[財布]]から万札を一度抜いたぐらいですけど、だんだんデッドヒートして、弟の[[チェロ]]を売り飛ばしたり、絵を売り飛ばしたり、最後には(クレジット)カードまで使って」と自ら語っている<ref name="vice">[http://www.youtube.com/watch?v=TWPyr3hpxZs VICE Japan 佐川一政 人を食った男 2/2]</ref>。[[1993年]]に知り合ったドイツ人男性から白人女性2名を紹介され、肉体関係を持たぬまま金蔓として利用され、共に海外旅行を楽しんだが、やがて佐川の過去が露見したために絶交された、という<ref name="vice" />。
 
[[2005年]](平成17年)[[1月4日]]に父が死去。翌日に母が[[自殺]]<ref name="shincho"></ref>。当時、佐川は闇金の取立てに追われて[[千葉県]]に逃げていたため、両親の死に目に会えず、社葬という理由で[[葬儀]]への出席も断られた<ref name="shincho"></ref>。その後、親の遺産で借金などを返し、2005年(平成17年)[[4月]]に[[公団住宅]]に転居<ref name="shincho"></ref>。千葉県に住んでいた頃は、持病の[[糖尿病]]が悪化し、[[生活保護]]を受けていたが、[[2006年]](平成18年)の[[インタビュー]]では「現在は受けていません」と語っている<ref name="shincho"></ref>。
 
過去には500通ほどの[[履歴書]]を書き、会社回りをしたものの、ことごとく採用を拒否されているという<ref name="shincho"></ref>。一度だけ「本名で応募してくる根性が気に入った」と採用決定された語学学校もあったが、職員たちの反対を受けて不採用となる<ref name="shincho"></ref>。小説を執筆しているが、どこの出版社からも取り上げられないと語っている<ref name="shincho"></ref>。
 
[[2010年]]のインタビューでは「もう白人女性は卒業した。今は[[日本人]]女性、特に[[沖縄]]の女性、ちゅらさん。食欲を感じます」と発言し、好きな女優に[[矢田亜希子]]、[[上戸彩]]たちを挙げている<ref name="vice" />。
 
2013年11月に[[脳梗塞]]で倒れて救急搬送され、歩行困難となり、実弟の介護を受けつつ[[年金]]と生活保護で暮らしていることが2015年に報じられた<ref name="宝島">『宝島』2015年8月号</ref>。最近のお気に入りの女優は[[滝本美織]]であるという<ref name="宝島" />。
 
=== 思想 ===