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欧州石炭鉄鋼共同体

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'''欧州石炭鉄鋼共同体'''(おうしゅうせきたんてっこうきょうどうたい、[[英語]]:European Coal and Steel Community、略称:'''ECSC''')は、[[冷戦]]期に欧州6か国によって設立され[[欧州連合ちに歴史|歴史]]を経て[[欧州連合]]となっていった[[国際機関]]。
 
国際[[カルテル]]から生まれ、生産割当・価格制限・情報共有・投資調整・安全保障・エネルギー政策といった機能が[[欧州統合|不可分]]に結びついていた。
 
== 概要 ==
欧州石炭鉄鋼共同体は[[スープラナショナリズム]]の原則に基づいて設立された最初の機関である。1950年5月9日に[[フランス外務省#歴史|フランス外相]][[ロベール・シューマン宣言]]が提唱したもので、「[[フランス]]と[[ドイツ]]の間での戦争を二度と繰り返さない」という考え方に基づいている。その後き、1951年[[パリ条約 (1951年)|パリ条約]]が調印されたことを受けてにより設立されることになるが、た。条約の調印にはフランスとドイツ(当時は[[西ドイツ]])だけでなく、[[イタリア]]とさらに[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]の[[ベネルクス]]3か国も加わった。欧州石炭鉄鋼共同体の発足によりこれらの調印国の間で[[石炭]]と[[鉄鋼]]の[[共同市場]]を創設することが企図されていた。欧州石炭鉄鋼共同体は加盟国政府の代表、議会の議員、独立の立場にある司法の監督を受ける最高機関の下で運営がなされた。
 
1956年、石炭価格規制が解除されて加盟国間で価格が自由化された。自由化直後は、翌年に連邦議会選挙を控えて、[[ルール地方#歴史|ゲオルク]]を解散するなどして石炭価格は低く抑えられていた。選挙が済むやいなや、炭鉱会社は価格の引き上げをECSCの高等機関へ一斉に働きかけた。価格は据え置かれて、石炭需要側はアメリカ炭に切り替え出した。そこで西ドイツは1969年まで石油税を課した。<ref>Falk Illing, ''Energiepolitik in Deutschland: Die energiepolitischen Maßnahmen der Bundesregierung 1949-2013'', Baden-Baden: Nomos. 2012, pp.69-70.</ref>
1957年には欧州石炭鉄鋼共同体のほかに2つの似たような共同体の設立が決まり、いずれも加盟国や一部の機関を共有するものとなった。1969年には欧州石炭鉄鋼共同体の機関が[[欧州経済共同体]]のそれらに統合されたが、共同体としては独自に存続していった。ところが2002年にパリ条約が失効し、また条約が更新されなかったため、欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は[[欧州共同体]]に吸収された。欧州石炭鉄鋼共同体が存続していた期間で市場の統合は達成したが、石炭・鉄鋼産業の衰退を回避することはできなかった。しかしながら、欧州石炭鉄鋼共同体は将来の[[欧州統合|欧州連合における統合]]の基盤を創りあげたといえる。
 
1957年の[[ローマ条約]]では[[欧州経済共同体]]と[[欧州原子力共同体]]が設立された。欧州石炭鉄鋼共同体は、これらと加盟国や一部の機関を共有した。1958年にアメリカ炭がダンピングをかけてきて、また1960年には世界の重油価格が1958年比で5/8程度に急落した。<ref>Michael T. Hatch, ''Politics and Nuclear Power: Energy Policy in Western Europe'', Lexington: University Press of Kentucky, p.196.</ref>
 
1967年、ローマ条約に鼎立した[[欧州諸共同体]]の運営機関が統一された。諸共同体は存置された。この後西ドイツは年率10%のペースで石油の消費量を増やし、天然ガスの使用量も倍増させ、原子力発電も実用化しだした<ref name=wise />。
 
これより先、欧州石炭の国際競争力は失墜した([[#成果と失敗]])。[[外資]]が投下され、金融面では[[銀行#銀証分離|ユニバーサル・バンク]]化が進んだ。[[ベルリンの壁崩壊]]翌年にドイツで[[固定価格買い取り制度]]が導入された。
 
2002年にパリ条約が失効し、特に更新もなく、欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は[[欧州共同体]]にうけつがれた。
 
== カルテルの究極 ==
また、民間企業の設備投資は原則として各企業の自由であった。しかし共同体は[[五カ年計画]]のようなこともやった。民間企業から投資設計を報告させるなどして需要予測を立てた。それに照らして需給バランスに問題を認めるときは、警告したり自ら救済融資に動いたりすることができた。1957年に[[銑鉄]]が不足し鉄くずの消費が増大したときは、警告の上銑鉄部門に融資を行った。また、この数年後にわたり共同体は西ドイツ鉄鋼メーカーへ何度も融資をした。それは例えば[[:de:Salzgitter AG|ザルツギッター]]への1億マルク信用保証とか、[[ティッセンクルップ|ティッセン]]事業拡大への融資などである。この頃ちょうど共同体は[[クーン・ローブ]]などから多額の融資を受けており、外の金融カルテルとも関係していることが分かる([[ベルギー#独立以降]]を参照)。共同体は、生産割当・価格制限・情報共有というカルテルの伝統的な機能だけでなく、投資調整まで可能であった。<ref name=cartel />
 
[[#機関|共同体の機関]]は最高機関、共同総会、閣僚特別理事会、司法裁判所の四部構成であるが、そのうち共同総会と司法裁判所は共同体の設立からほどなく[[欧州原子力共同体]]と共有された。欧州石炭鉄鋼共同体発足時は原子力大国フランスの発言力が大きかった。原子力問題省''Bundesministerium für Atomfragen'' の設立と[[チュニジア]]の独立から2年たっを経後、1958年、[[西ドイツ]]下院で核武装が決議された。ボタンは[[NATO]] が持つことになった。これは[[ニュークリア・シェアリング]]と呼ばれている。そしてこの頃、共同体は西ドイツ鉄鋼メーカーへ継続的に資金を提供していたのである。共同体は、投資調整と安全保障とエネルギー政策を不可分な形で担ったのである。
 
共同体内の鉄鋼業は国際輸出カルテルを結んでいた。1953年3月に発足した'''ブラッセル・コンベンション'''である。原加盟国はフランス・[[ベルギー]]・ルクセンブルクであったが、同年9月オランダと西ドイツが参加した。いつしかイタリアも加盟した。協定品目は画期的、つまり鉄なら大体全部であった。罰金の徴収・管理は戦前から引続き[[スイス銀行|スイス信託会社]]が請け負った。ブラッセル・コンベンションは共同体内よりも高い価格で輸出し、[[関税及び貿易に関する一般協定]]の総会で問題にされた。最高機関はブラッセル・コンベンションを条約違反と宣言したが、条約の規制する競争制限は共同体内に限り輸出は規制外という抗弁が通ってしまった。<ref name=cartel />
 
== 成果と失敗 ==
<!--欧州石炭鉄鋼共同体は石炭と鉄鋼の生産にあまり影響をもたらすことはなく、-->世界の傾向と比較すると-->欧州石炭鉄鋼共同体は鉄鋼の生産量増加させが、石炭については雇用と生産量少した。しかしながら生産性を向上させた<ref>Michael T. Hatch, ''Politics and Nuclear Power: Energy Policy in Western Europe'', Lexington: University Press of Kentucky. 1986, p.195.</ref>。加盟国間では、石炭の貿易量は10倍となるなど通商関係が促進された。<!--またアメリカからの資源輸入の必要性がなくなったことで域外への資金流出が抑えられた。-->最高機関は生産量の向上と経費削減を促すために産業界280件融資実施していた。また国境通過の際の関税を廃止したことで、産業界にとっては経費がさらに削減されることになった<ref name="Mathieu">{{cite web|last=Mathieu|first=Gilbert|title=The history of the ECSC: good times and bad|publisher=[[ル・モンド|Le Monde]], accessed on CVCE |date=1970-05-09|url=http://www.cvce.eu/obj/the_history_of_the_ecsc_good_times_and_bad_from_le_monde_9_may_1970-en-54f09b32-1b0c-4060-afb3-5e475dcafda8.html|language=English|accessdate=2013-09-08}} (要Flash Player)</ref>。最終的に石炭価格は米国炭のダンピングに屈した。西ドイツは石炭に対するエネルギー依存を1967年に前年の3701ペタジュールから3291ペタジュールへ縮小させた<ref name=wise>[http://www.sachverstaendigenrat-wirtschaft.de/zr_deutschland.html#c879 ドイツ経済諮問委員会(いわゆる五賢人委員会)HPの統計資料](2016年1月11日アクセス</ref>。
 
西ドイツの対アジア輸出は1952年に8億マルク程度だったのが、1956年に19.95億マルクに増えた。1956年の輸出先では[[インド]]が突出して8.19億マルクであった。このように輸出が伸びた時期にちょうど[[インド準備銀行]]が行った[[外資]]等の実態における調査は、英米ないし国際機関による投融資が主体であった事実を記録している。西ドイツからの輸入は英米等の[[直接投資]]が呼び込んだものと推察される。数字としては成功だが、しかし金融においては当時から英米に主導権を握られていた([[フランスの経済#ド・ゴール、ポンピドゥー、ジスカール・デスタン|フランス]]が良い例)。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[欧州連合の歴史]]
 
== 参考文献 ==
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