「ヴィリニュス」の版間の差分

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=== 中世 ===
[[リトアニア大公国]]の王[[ミンダウカス]]の居城の一つとして、この地に城が作られたのは[[13世紀]]であった。[[ゲディミナス朝]]の中興の祖・[[ゲディミナス]]によって公国の領土は、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]、そして[[ドニエストル川]]全域、さらには[[ポーランド]]や[[ロシア]]の一部にまで拡大したが、{{仮リンク|ヴィルナ川|en|Vilnia River}}と{{仮リンク|ネリス川|en|Neris}}という二つの航行可能な河川が流れ、森林と湿地に守られたヴィリニュスは公国の統治・防衛に好都合で、首都として機能するようになる([[1323年]]、ゲディミナスが[[ローマ教皇]][[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]に宛てた書簡に都として名前が登場する)。
 
ゲディミナスの子[[アルギルダス]]の死後、大公の座をめぐって紛争が起こるとヴィリニュスは戦禍に見舞われる。勝者となった[[ヨガイラ]]は、ポーランド女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]と結婚し、[[ポーランド・リトアニア合同]]が誕生した。ヨガイラによってヴィリニュスは[[マクデブルク法]]の自治を獲得する。ヴィリニュスは順調な発展を続け、[[16世紀]]に入ると城壁も整備され、[[ジグムント2世]]の宮廷もここに移された。ヴィリニュスは公国領の各地から集った多様な民族で殷賑を極めた[[国際都市]]へと発展した。[[1579年]]には[[ヴィリニュス大学]]が創立される。
 
[[17世紀]]を迎えると、[[ポーランド・リトアニア共和国]]は、衰退が始まる。[[大洪水時代]]である。[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]では、ヴィリニュスは[[ロシア帝国]]および[[ザクセン公国]]軍に占領され放火・略奪・大虐殺の甚大な被害を受ける。[[1710年]]にはペストの大流行で1700人を超える市民を失い、さらにたび重なる大火で、市は18世紀を通して衰退を極めた。さらに、ポーランド・リトアニア共和国は、[[ブランデンブルク=プロイセン王国]]、ロシア帝国、[[オーハプトリア大公ブルク君主国]]の三列強により3度にわたって分割される([[ポーランド分割]])。特に、[[1795年]]の第3次分割で、ヴィリニュスはロシア帝国に編入され、ヴィリニュスにはヴィルナ・[[グベールニヤ]]の庁舎が置かれた。ロシア帝政下で、ヴィリニュスの城壁は破壊された。
 
[[1812年ロシア戦役]]では、[[モスクワ]]攻略に向かう[[ナポレオン・ボナパルト]]によって、ヴィリニュスは再び破壊されたが、しかし、ナポレオンの[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]は当初、市民には歓迎された。[[1831年]]、第1回反ロシア蜂起([[11月蜂起]])が起こるとヴィリニュス大学は閉鎖され、ヴィリニュスは圧政下に置かれた。[[1863年]]に始まる第2回反ロシア蜂起([[1月蜂起]])は激しい市街戦となり、鎮圧したロシアはリトアニア語とポーランド語を禁じるロシア化政策を強行、リトアニア人がヴィリニュスをそしてリトアニアを離れることになった。
 
=== 20世紀 ===