「里見氏」の版間の差分

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[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、里見義豊が叔父の里見実堯を討つが、翌年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]]には実堯の実子の[[里見義堯]]が、後北条氏の与力を得て、里見義豊の籠もる[[稲村城]]を落し、義豊を自害に追い込み家督を継いだ。この一連の内紛を'''[[稲村の変|天文の内訌]](稲村の変)'''と呼ぶ。天文の内訌については、若年の義豊が無思慮に後見人である叔父を排除したことがきっかけであると描かれてきたが、近年の史料発掘の結果として義豊はすでに壮年を迎えており、庶流である里見実堯・義堯父子による宗家に対する[[下克上]]の一環であったとの見方が強まっている。このため、義豊以前を「前期里見氏」、義堯以後を「後期里見氏」と呼んで区別する研究家もいる<ref>滝川恒昭「房総里見氏の歴史過程における『天文の内訌』の位置付け―関係史料の紹介をかねて―」(『千葉城郭研究』2号、1992年)</ref>。
 
また天文の内訌に関連し、「後期里見氏」がその正当性を主張するために「前期里見氏」に関する記録を改竄した疑いも持たれている。義豊が若年の当主とされた点や、第2代当主「[[里見成義]]」の実在が疑われる点などがそれであり、義豊以前の里見氏の記録が異常に少ないことも「後期里見氏」による史料の隠滅に関係していると言われている。また、「前期里見氏」の一族(義通または義豊の子孫)と推定される「[[源民部太輔]]」という人物が安房国[[白浜城]]にいたことも確認されている<ref>早川正司「里見義堯と゛おびんづるさま"」(私家版、1970年)</ref><ref>佐藤博信「里見義通試論―前期里見氏研究の深化のために―」(『千葉史学』30号、1997年)</ref><ref>「前期里見氏から後期里見氏へ」『千葉県の歴史 通史編 中世』「前期里見氏から後期里見氏へ」(2007年)P843-844</ref>。
 
==== 天文の内訌以後 ====