「護得久朝惟」の版間の差分

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実業家・衆議院議員
 
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[[尚泰王]]の長女・真鶴金との縁談が持ち上り、王の近習は護得久家の経済状態が良くないことから難色を示したが、王の決断で結婚が認められた<ref name=ok100>『沖縄の百年 第1巻』73-75頁。</ref><ref>『人事興信録』第6版、こ65頁。</ref>。[[1893年]]9月、[[尚順]]、[[太田朝敷]]らと協力して『[[琉球新報]]』を創刊<ref name=ok/>。[[第二尚氏|尚家]]の資金により設立した丸一商会、沖縄広運 (株) の社長を務めたほか、沖縄[[農工銀行]]頭取、沖縄土地建物 (株) 監査役などを歴任<ref name=ok/><ref name=ok100/>。
 
[[1912年]]5月、沖縄県最初の[[第11回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]で当選した[[高嶺朝教]]が<ref>『沖縄大百科事典』中巻、687-688頁。</ref><ref>『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』384頁。</ref>、[[1914年]]8月1日、衆議院議員を辞職し<ref>『官報』第602号、大正3年8月3日。</ref>、その[[補欠選挙]]に出馬して当選<ref>『官報』第630号、大正3年9月5日。</ref><ref name=gi>『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』257頁。</ref>。その後、[[第11回衆議院議員総選挙|第11回]]、[[第12回衆議院議員総選挙|第12回総選挙]]でも当選し、衆議院議員を連続三期務めた<ref name=gi/>。
 
また、[[侯爵]]尚家の家職を務め、その経済的な基盤を確立し、日本国内において旧王家の社会的な地位を確立するため他藩[[華族]]との婚姻を推進した<ref name=ok/><ref name=ok100/>。