「高台院」の版間の差分

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== 人物 ==
* 実母の朝日は秀吉との婚姻を、周囲の反対にもかかわらず密かに結ばれた野合であるとして、生涯認めることはなかった(『平姓藤原氏御系図附言』){{Sfn|田端|2007|pp=7-8}}。
* 秀吉の母である[[大政所|なか]]とは、{{要出典範囲|date=2016年5月|実の母娘のように仲が良く、彼女の死去まで同じ屋根の下で暮らしていた。}}
* 夫の主君・[[織田信長]]の四男の[[羽柴秀勝|秀勝]]を養子に迎えたのは、おねが信長に懇願して主筋の子を我が子として家中の安泰を図ったものではないかとされ<ref>宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号、1999年)</ref><ref>宮本義己「戦国時代の夫婦とは」『歴史研究』488号、2002年)</ref>、信長もおねの真意を察したからこそ、夫の浮気に悩む彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、消息にもかかわらず、あえて公式文書を意味する「天下布武」の朱印が押されている。信長にそこまで気遣いをさせる彼女の人間性や魅力を感じさせる数少ない史料である。大意は以下の通り。
*:「…この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あの『ハゲネズミ(=秀吉)』があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい…」
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* 実子がいなかったせいもあってか、一族の子女を可愛がり、特に兄・家定の子供らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。家定没後、その所領を[[木下利房]]と[[木下勝俊]](長嘯子){{Efn|利房は関ヶ原合戦で西軍に属したため、勝俊は伏見城守護の任にありながら開戦直後に退去して家康の怒りを買ったため、いずれも改易され浪人中。}}に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように[[浅野長政]]を通じて[[徳川秀忠]]に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている{{Efn|『[[当代記]]』には、家康はこの時、怒りのあまり「近年、政所老気違」と言ったと記されており、[[慶長年録]]では「政所老耄か気違」と言ったと記されている。なお、この所領は仲介をした長政の息子[[浅野長晟]]に与えられた。}}。これは、高台院と家康が俗説で考えられているような親密な関係ではなかったことを証明する事件である。他にも家康は大坂の陣後に豊国廟を破却するなどの行為も行っている<ref>[[白川亨]]『石田三成とその子孫』</ref>。
* 徳川秀忠は高台院を手厚く保護しており、「平成杉原氏御系図附言簒」に秀忠が12歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった高台院と孝蔵主が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)髪の結いよう、装束の着方を秀忠に教えるなどしていた。そのため秀忠は終生上洛するたびに高台院を訪ねていて、親しい間柄であったことが分かる{{Sfn|田端|2007|pp=161-162}}。高台院が秀吉から与えられ家康に安堵された領地は、家康死後の元和3年(1622年)には1万6,923石余にまで増えている。ちなみに寛永6年(1629年)に譲位した後水尾上皇のために幕府が用意した御料地は3,000石(のちに加増されて1万石)であった。
* {{要出典範囲|date=2016年5月|甥の小早川秀秋を可愛がっていないことをたしなめる秀吉からの手紙が現存しているが}}、一方で{{要出典範囲|date=2016年5月|秀秋が死去した際には[[西洞院時慶]]に「痛(悼み)」の文章を依頼している。}}なお、高台院の葬儀に際しては、{{要出典範囲|date=2016年5月|木下長嘯子と利房が棺を担いだと伝える。}}
* [[前田利家]]の正室の[[芳春院]]とは親密な関係であったという。また、[[山内一豊]]の正室・[[見性院]]とも長浜時代以降親しく交わったといい、見性院は晩年を高台院屋敷の近くの屋敷(現[[京都地裁]]付近)で送っている。