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{{Battlebox|
|battle_name=リヨン包囲戦
|campaign=フランス革命戦争
|image=[[ImageFile:Seige of lyon.jpg|300px]]
|caption=共和国軍によるリヨン市包囲
|conflict=[[フランス革命戦争]]
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'''リヨンの反乱'''(-リヨンのはんらん, {{lang-fr-short|Siège de Lyon}})は、[[フランス革命]]期の[[1793年]]、[[パリ]]の革命政府に対して[[王党派]]と穏健共和派が起こした[[リヨン]]での反革命反乱である。ジロンド派と関係する連邦主義の反乱の一つとされる。
 
革命政府はこれを徹底的に弾圧し、'''リヨンの大虐殺'''を引き起こした。反乱鎮圧後、リヨンの都市名は改名され、'''ヴィル・アフランシ'''<ref>{{lang|fr|Ville-affranchie}}</ref>の名で呼ばれた。
 
==背景==
当時リヨンは、フランスでも工業都市として栄えており、新たに成り上がった[[ブルジョワジー]]と[[労働者]]([[サン・キュロット]])たちとの対立は、パリよりも深刻なものであった。そんな中、パリから火がついたフランス革命の勃発により、急進的な革命の継続を求めるサン・キュロットたちと、反革命派、あるいは穏健な改革を望む者たちとの対立はより深刻なものとなってしまう。サン・キュロットたちは、狂信的な[[ジャコバン派|ジャコバン主義者]]・[[ジョゼフ・シャリエ]]([[:w:Joseph Chalier{{enlink|Joseph Chalier]])}}の煽動の下に'''シャリエ派'''と呼ばれるグループを形成していた。
 
シャリエは元僧侶であったが革命を歓迎し、[[バスティーユ牢獄]]の石垣を抱え、6日6晩徒歩でパリからリヨンへと持ち帰り、これを聖体として崇める程の狂信的な革命家だった。また、[[ジャン=ポール・マラー|マラー]]を神の如く崇拝するなど、その政治的急進性とカリスマ性は反革命派にとって脅威であった。
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[[国民公会]]が脅しとして[[ギロチン]]を送りつけると、リヨンでは逆にそのギロチンを使ってシャリエを処刑することを決定し、[[7月17日]]に執行された。しかし、ギロチンの扱い方になれないリヨンの処刑人リペールは、ギロチンの刃を3度落としてもシャリエの首を切断することができず、最後は斧(ナイフとする文献<ref>『死刑執行人サンソン』(安達正勝、[[集英社]]新書)</ref>もある)を使ってようやく首を落とした。この光景には、シャリエ派のみならず、反革命派の民衆もショックをうけた。
 
[[ImageFile:Fusillades at Lyon.jpg|thumb|300px|リヨンへの包囲・砲撃]]
 
===反乱の鎮圧===
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==リヨンの大虐殺==
===国民公会の対応===
鎮圧されたリヨン市に対し、国民公会は徹底的に報復することを決定。[[10月12日]]、公会議長[[ルイ=ジョゼフ・シャルリエ]]は以下のような宣言<ref>『ジョゼフ・フーシェ -或る政治的人間の肖像-』p46([[シュテファン・ツヴァイク]]、[[岩波書店]])から</ref>を発した。
 
#国民公会は、[[公安委員会 (フランス革命)|公安委員会]]の建議により、猶予することなくリヨンの反動革命を武力で懲罰する目的を以って、5名の議員より成る非常委員会を指名する。
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#武装の一部は、富者及び反動革命家の圧迫を被っている愛国者に交付するものとする。
#リヨン市は破壊されるものとする。有産階級の住居は全て破壊されるべし。貧民の家、殺戮もしくは追放させられた愛国者の住家、工業建築物、並びに慈善・教育の目的に使用されるもののみは、残存に差し支えなし。
#リヨンという名称は、共和国の都市表から抹消される。残った都市は、今後'''ヴィル・アフランシ'''の名で呼ばれるものとする。
#リヨンの廃墟には記念碑を立て、王党の都市の罪と罰を天下後世に知らせる目的を以って「リヨンは自由と戦いを交えたり―リヨンはもはやあらず」という碑銘を刻むものとする。
 
[[ImageFile:Couthon1.png|thumb|100px|[[ジョルジュ・クートン|クートン]]]]
議会ではこれに反対するものもなく、ジャコバン派の指導者[[マクシミリアン・ロベスピエール]]の側近、[[ジョルジュ・クートン]]が国民公会代表としてリヨンへと派遣された。リヨンではこの宣言を聞いた市民達が革命政府の報復をおそれ、戦慄した。
 
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===フーシェ、コロー・デルボワの派遣===
[[ImageFile:Siege and Taking of the City of Lyon.jpg|thumb|left|コロー・デルボワの命令による住民の大量銃殺刑]]
やがてクートンに代わって[[ジョゼフ・フーシェ]]、[[ジャン=マリー・コロー・デルボワ|コロー・デルボワ]]らの派遣が決定された。コロー・デルボワは[[11月7日]]、フーシェは[[11月10日]]にぞれぞれリヨンに到着している。コロー・デルボワについては、彼がリヨンで[[俳優]]をしていた際、舞台で野次り倒されたことがあったため、リヨン市民に対する処罰にはもってこいとされたという説がある。
 
彼らはクートンの処置を生ぬるいものとして、リヨンへの徹底的な報復を開始する。まず、処刑されたシャリエの遺体を担ぎ出し、彼を称えるパフォーマンスを行った。翌日には革命裁判所が設置され、[[12月4日]]から本格的な処刑が開始された。ギロチンによる処刑では「あまりにまだるっこい」として、大砲による処刑や、自分で墓穴を掘らせた上での[[銃殺]]などが行われた。フーシェにいたっては、都市人口の10%を処刑する、というノルマを己に課していたとも言われる。
 
[[画像File:Joseph Fouche.jpg|thumb|150px|「リヨンの霰弾乱殺者」<br>[[ジョゼフ・フーシェ]] ]]
これにより、リヨンの反乱に関った人々は処刑され、[[プロトー平原]]には死体が溢れかえった。さらに、国民公会の宣言にのっとり、リヨンの街も徹底的に破壊される。それでも処刑が続いたため死体は[[ローヌ川]]・[[ソーヌ川]]に沈められたが、一部はいかだに載せられて下流へと流された。これは、同じく王党派の反乱が起こった[[トゥーロン]]まで死体が流れ着けば、叛徒への脅しとなるというフーシェの指図によるものだった。トゥーロン奪還の報が届くと、その日の祝いとしてさらに200名もの叛徒の処刑を行った。
 
3ヶ月にわたる虐殺で、2000人近くの人々が処刑されたといわれる。なお、フーシェはこの一件の後で「'''リヨンの霰弾乱殺者'''」と呼ばれるようになっている。
 
==その後==
リヨンの街は徹底的に破壊され、反乱関係者も処刑されたことで、リヨンでの反革命分子はほとんど消滅した。国民公会の宣言どおり、リヨンの名は改名され、以降同市は'''ヴィル・アフランシ'''("Ville-affranchie"、'''解放市'''の意。または'''コミューン・アフランシ''')と称されるようになった。
 
また、この大虐殺を指導した[[派遣議員]]のフーシェ、コロー・デルボワは、パリから出頭を命じられた。虐殺が過激すぎるものとして、ロベスピエールの怒りを買ったためである。派遣議員の中には、トゥーロンへ派遣された[[ポール・バラス|バラス]]や[[ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン|フレロン]]、[[ボルドー]]へ派遣された[[ジャン=ランベール・タリアン|タリアン]]など、彼らと同様に過酷な報復が咎められる者が多かった。これを理由に処刑されることを恐れた派遣議員達は、フーシェの首謀する反ロベスピエールの陰謀に加担した。やがてこの動きが[[テルミドールのクーデター]]へとつながるのである。
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クーデター後の1794年10月7日、都市名はリヨンに戻された。
 
==釈・参考文献 ==
{{reflist}}
<references/>
 
== 参考文献 ==
*『リヨンのフランス革命 自由か平等か』(小井高志、立教大学出版会、2006年)
 
==関連項目==
* [[マルセイユの反乱]]
* [[トゥーロン攻囲戦]]
* [[ヴァンデの反乱]]