「ナヴォイ劇場」の版間の差分

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また、収容所では自由時間に建築現場の床材から[[麻雀]]パイを作ったり、紙から[[将棋]]、[[囲碁]]、[[トランプ]]、[[花札]]を作ったりした娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元の[[ウズベク]]人を招いた演芸大会も行なわれた。生活の悩みは住居であった収容所に多量にいた[[南京虫]]。ベッドの隙間に無数に生息し、当初かまれるとかゆくて寝られないこともあったが、徐々に免疫が出来てかゆくなくなってきた。殺虫剤はないので、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当てて焼き、効果はあったが全滅させることはできなかった<ref>「追憶 ナボイ劇場建設の記録 -シルクロードに生まれた日本人伝説ー」NPO日本ウズベキスタン協会編集 P.21</ref>。
 
なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の「私らが昭和20年11月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどでけていました。これは間違いありません」という証言などから、「日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていた。日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて“建設”した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められていることを批判しているが、実際の建設に携わられた抑留者の方や現地のウズベク人、ならびにウズベキスタン政府が認識している話とは異なっているため、この認識は誤りであると思われる<ref>[http://blog.silkroad-j.lomo.jp/?eid=1321078 シルクロード日誌5《文化遺産としての「ナボイ劇場」建設の“真実”》その1]</ref>。
 
1966年4月26日の[[タシュケント地震]]では、78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、ナヴォイ劇場は無傷であり<ref>赤井克己『おかやま雑学ノート』吉備人出版 2000年 p.118-121</ref>、市民達の避難場所としても機能した。