「赤松義雅」の版間の差分

争乱部分を具体的な大和永享の乱へ変更。同項へリンク。
(争乱部分を具体的な大和永享の乱へ変更。同項へリンク。)
 
== 生涯 ==
赤松義則の子で満祐の実弟。[[永享]]4年([[1432年]])9月、[[大和国|大和]]で[[越智維通]]らによる[[大和永享の]]が起こって[[筒井良舜]]が幕府に援助を求めてくると、義雅は兄の命令で[[畠山持国]]と共に軍を率いて越智の立て籠もる[[箸尾城]]を11月30日に攻め落とした<ref>『赤松円心・満祐』吉川弘文館。198頁。</ref>。しかし帰途に野伏の襲撃を受けて60名の家臣を失い、自らも負傷した<ref>『[[満済准后日記]]』。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。198頁。</ref>。
 
永享12年([[1440年]])3月17日、第6代将軍・足利義教の命令で義雅の所領は全て没収され、改めて兄の満祐の他に一族の[[赤松貞村]]、そして[[細川持賢]]に分割して与えられることになった。これは義教の有力[[守護大名]]に対する干渉策の一環であるが、これが原因で義教に対する満祐の憎悪がさらに高まったという<ref>『建内記』では満祐が一部の所領を安堵してほしいと義教に願ったが聞き入れられなかったという。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。207頁。</ref>。