「松山城 (備中国)」の版間の差分

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現在見られる天守は、天和元年([[1681年]])に2代水谷勝宗が造営したとされるが、慶長5年(1600年)に小堀政次、政一が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれる<ref name="三浦">{{Cite book|和書|author=三浦正幸 監修|title=【決定版】図説・天守のすべて|series=歴史群像シリーズ特別編集|publisher=[[学習研究社]]|year=2007|isbn=978-4-05-604634-2}}</ref>。
 
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至った<ref name="三浦"/>。また天守に通じる石段は、敵の侵入を遅らせるために、直角に曲げられている。1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られているが、城内で火を使うことは禁じられ{{要出典|date=2009年1月}}、ほとんど使われることはなかったといわれている。一段高い場所にある「装束の間」は、城主の御座所であるとされ<ref name="三浦"/>、また城が攻められた時に城主が自害をするための場所であるともされる<ref name="西ヶ谷"/>。2階には、[[愛宕権現]]や[[成田明神]]など9柱の神を祀った「御社壇(ごしゃだん)」と呼ばれる舞良戸で仕切られた部屋がある。外観は、建物高さが約11mほどで現存する12か所の天守の内では最も小規模であるが、12か所の内では最も高所にある<ref>{{Cite book|和書|author=[[村田修三]] 監修|title=ビジュアル・ワイド 日本名城百選|publisher=[[小学館]]|year=2008|isbn=978-4-09-681564-9}}</ref>。腰板張りで1重目の唐破風出窓や2重目の折れ曲がり出窓など、縦連子窓を多用し、1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられている<ref name="三浦"/>。
 
== 問題点 ==