「首実検」の版間の差分

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Eirikr (会話 | 投稿記録)
→‎装束: →‎装束: 漢字の繰り替え: 「重藤」を「重籐」に(部首の違い。https://kotobank.jp/word/%E9%87%8D%E7%B1%90-518399 などにより)
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髪は普通時よりも高く結い上げ、髪を結うにははじめから水を付け、右から櫛をつかい、櫛の「みね」で立て、元結いを櫛で4度たたいて結いおさめる。普段、櫛の「みね」を髪に当てることを忌みきらうのは、ここからきたものである。歯を染めてある首には、「[[お歯黒|かね]]」をつける<ref>『軍用記』七 「首の拵様(くひ仮粧と云ひ又首装束とも云ふ)髪は常より高くゆひ候なり首の髪をゆふには初より水を付右よりくしをつかひそのくしのみねにてたてゝ元ゆひを櫛にて四ツたゝきて結ひ納る也されはたゝの時櫛のみねをかみに当つへからすまた歯を黒めたる首にはかねを付けけ志やうしたるくひにはけ志やうする也」。『越後軍記』三 景虎問頸実検之法式事「一 実検ノ前額ノ左ノ方ニ我手ヲアテ三度摩ルヲ頸ヲ化粧スルト云フナリ(改行)一 頸ヲ洗ニハ首ヲ北向ニシテ酒ヲ以テ洗エノ油ヲ面ニ塗事アリ梟首スル時モ如是スル事アリ」</ref>。
 
天正2年(1574年)の正月、[[織田信長]]は[[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の首([[頭蓋骨]])を薄濃(はくだみ)にしたものを酒宴で披露した。[[桑田忠親]]はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評しているが<ref>[[桑田忠親]]『淀君』(吉川弘文館、1958年)25頁</ref>、[[宮本義己]]は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している<ref>[[宮本義己]]『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)61-62頁</ref>。
 
== 場所 ==