「村木源次郎」の版間の差分

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大杉虐殺後、1923年末頃から、和田や[[ギロチン社]]の[[中浜哲]]、[[古田大次郎]]と大杉の復讐を図る。1924年9月1日、和田は本郷菊坂町長泉寺で開かれた震災記念会で当時の戒厳司令官福田雅太郎を狙撃するも失敗、見張り役だった村木と古田は逃亡。2人はその後福田の家へ小包に偽装した爆弾を送りつけて爆発させたり本郷本富士警察署の廊下に爆弾を仕掛けたりしたが、9月10日、隠れ家を包囲され2人とも逮捕される。
 
村木は予審中に肺病で倒れ、1925年1月22日、担架で労働運動社に返される。1月24日、意識を回復することなく死去。享年36
 
「村木はあの体ですから、捕つたら駄目だとは思つてゐましたが、それにしても、せめて法廷にだけは起たしてやりたかつたです。が、何んとも仕方ありませんでした。しかし、村木は村木らしく死にました。僕が思はず枕頭に涙を流したのを見て、彼は『泣いたつて……しようが……あ、あるかッ』と切れ切れな言葉で僕を叱りました。そして、既に意識を失つた死体同然の体を、タンカに乗せられて監獄を出て行きました。それは一月半ばの風の激しい、寒い闇の夜でした」(和田久太郎獄中書簡)
 
1925年1月24日、村木は意識を回復することなく息を引き取る。享年36。
==人物==
村木は大杉の遺児から「げんにい」と慕われた。『労働運動』第6号(第4次、1924年12月1日発行)には次のような短信を載せている。