「彌吉上総入道」の版間の差分

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江戸期の久留米藩の学者・[[矢野一貞]]は、その著書『筑後将士軍談』で、彌吉上総入道の子孫である彌吉杢助から、上総入道の位牌の没年が慶長12年(1607年)であると聞き、これが西牟田弥讃岐守公家の二男であるならば年代が合わないと記している<ref>矢野一貞『筑後将士軍談』中巻(名著出版)116-117頁「彌吉氏」</ref>(西牟田公家は「寛元寺文書」等から西暦1400年前後に活躍した人物であることを確認できる)。
 
溝口屋勘次らが、先祖の墓所や過去帳、家伝の古文書を調査して作成した「彌吉家系図」(うきは市立図書館蔵)は彌吉上総入道を、西牟田讃岐守公家の二男ではなく、戦国時その七末期に活躍した後の[[西牟田紀伊守統賢]]の二男・[[西牟田新右衛門家和]]としている。
 
== 脚注 ==