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[[1960年代]]後半には『白昼の通り魔』([[1966年]])や『[[忍者武芸帳]]』([[1967年]]){{Refnest|group="注"|[[白土三平]]の原作の原画を写真に撮影し、それを映画フィルムで連続して撮影したもの。いわゆる[[アニメ]]ではない。}}、『[[絞死刑 (映画)|絞死刑]]』([[1968年]])、『[[新宿泥棒日記]]』([[1969年]])など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。[[1971年]](昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『[[儀式 (映画)|儀式]]』を発表。同作は[[キネマ旬報]]ベストテンの第1位に選出された。翌[[1972年]](昭和47年)の『[[夏の妹]]』の発表後、創造社は翌[[1973年]](昭和47年)[[7月]]に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。[[1975年]](昭和49年)、新たに大島渚プロダクションを設立。『[[愛のコリーダ]]』の製作に着手した。
 
=== 海外世界での映画製作 ===
[[1976年]](昭和50年)、[[阿部定事件]]([[1936年]])を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『[[愛のコリーダ]]』を発表。同作は[[検閲]]を避けるため、[[若松孝二]]と[[アナトール・ドーマン]]のプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムを[[フランス]]へ直送して現像と[[映像編集|編集]]の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた<ref>{{Cite news|date = 2013-01-22|newspaper = THE WALL STREET JOURNAL 日本版|title = 【オピニオン】日本映画界が失った「異端児」―大島渚氏|url = http://jp.wsj.com/articles/SB10001424127887324439704578257102878133058|accessdate = 2015-11-10}}</ref>。[[第29回カンヌ国際映画祭]]の監督週間部門に出品され、[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア・ポルノ]]を思わせる過激な性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作は[[シカゴ国際映画祭]]審査員特別賞や[[英国映画協会]][[サザーランド杯]]を受賞し、{{独自研究範囲|date=2015年4月10日 (金) 02:23 (UTC)|大島の国際的名声を不動のものにした}}が、日本では[[映倫管理委員会|映倫]]によって映画が大幅な修正を受けた。[[2000年]]のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では現在でも完全な状態での視聴は不可能となっている。また、[[1979年]](昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際には[[わいせつ物頒布等の罪]]で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、[[ヤクザ映画#東映|東映のヤクザ映画大作]]『[[日本の黒幕]]』の監督に抜擢されたが脚本の最終段階で降板。
 
その後は日本資本での映画製作が中心となり、[[1978年]](昭和53年)に再び日仏合作による『[[愛の亡霊]]』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、[[不倫]]した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と類似する題材を扱った。同作は[[第32回カンヌ国際映画祭]]で[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]]を受賞。[[1983年]](昭和58年)には[[ビートたけし]]や[[坂本龍一]]、[[デヴィッド・ボウイ]]など異色のキャスティングが話題となった国際的合作『[[戦場のメリークリスマス]]』を発表。[[第36回カンヌ国際映画祭]]に出品された際には[[パルム・ドール]]最有力候補と目されたが、無冠に終わった{{Refnest|group="注"|パルム・ドールは[[今村昌平]]監督の『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』が受賞した。}}。同作で初めて[[映画音楽]]を担当した坂本龍一は[[英国アカデミー賞]]作曲賞を受賞した。[[1986年]](昭和61年)の『[[マックス、モン・アムール]]』では人間と[[チンパンジー]]の愛を描いた。同作は主演に[[シャーロット・ランプリング]]、脚本に[[ジャン=クロード・カリエール]]、[[撮影監督]]に[[ラウール・クタール]]を起用し、全編フランスで撮影された。
 
[[1990年代]]には[[早川雪洲]]と[[ルドルフ・ヴァレンティノ]]の関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役には[[アントニオ・バンデラス]]を起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後は[[英国放送協会|BBC]]の依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』([[1991年]])や『日本映画の百年』([[1995年]])といった[[テレビ番組|テレビ]][[ドキュメンタリー]]を製作した。
 
また、[[1980年代]]後半からは『[[朝まで生テレビ]]』のレギュラーパネリストとなり、[[テレビ番組|テレビ番組]]のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生きがい甲斐であると語った。その他にも[[1980年]](昭和54年)には[[日本映画監督協会]]の理事長に就任し、[[1996年]]([[平成]]8年)まで歴任した。
 
=== 『御法度』と闘病 ===