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=== 結成 ===
[[File:Jinshotai.jpg|thumb|[[迅衝隊]](前列左から[[伴権太夫]]、[[板垣退助]](中央)、[[谷乙猪]](少年)、[[山地元治|山地忠七]]。 中列、[[谷重喜|谷神兵衛]]、[[谷干城]](襟巻をして刀を持つ男性)、[[山田平左衛門|山田清廉]]、[[吉本祐雄|吉本平之助]]。 後列、[[片岡健吉]]、[[真辺正精]]、西山 榮、[[北村重頼]]、別府彦九郎)]]
[[1867年]](慶応3年)[[坂本龍馬]]と[[中岡慎太郎]]の仲介を経て、[[5月21日]][[小松清廉]]邸で、[[薩摩藩]]の[[西郷隆盛]]・[[吉井友実]]・小松清廉らと[[土佐藩]]の[[板垣退助|乾(板垣)退助]]・[[谷干城]]・[[毛利恭助]]・[[中岡慎太郎]]らが会談し、薩土討幕の密約([[薩土密約]])が結ばれた。
 
[[1867年]]([[慶応]]3年)12月28日、薩土密約に基づき、京都にいる[[西郷隆盛]]から土佐の乾退助あてに、「討幕の開戦近し」との伝令が出された。その予想どおり、明けて[[1868年]](慶応4年)1月3日、[[鳥羽・伏見の戦い]]が勃発する。同1月6日、[[谷干城]]が土佐に到着し、京都において武力討幕戦が開始されたことを乾退助に報告した。これを受けて、「薩土討幕の密約」を守るべく、同1月6日土佐において、土佐藩の勤皇の志を持った武力討幕部隊として[[下士]]や[[郷士]]を主とした軽格によって編成された迅衝隊が結成された。
 
=== 官軍となる ===
翌1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、幕府勢は「[[朝敵]]」となる。同1月13日、迅衝隊が土佐を出発し、同年2月7日上洛するまでは、土佐藩家老の深尾丹波が総督を勤め、同年2月7日から[[1870年]](明治3年)11月の解散までの期間は、大隊司令の乾退助が総督を兼任した。土佐から上洛する為に出征した直後、「讃岐高松、伊予松山両藩及び天領川之江征討」の勅を拝し、「[[錦の御旗]]」を授けられ、官軍として進軍することとなる。