「マケドニア王朝 (東ローマ)」の版間の差分

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| 867年 - 886年 || アルメニア系農民出身
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| '''[[レオーン6世]]'''フィロソフォス”<ref>「哲学者」を意味するあだ名</ref>
| 886年 - 912年 || バシレイオス1世の次男
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| 912年 - 913年 || バシレイオス1世の三男
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| '''[[コンスタンティノス7世]]'''ポルフュロゲネトス”<ref>「緋色の産室生まれ」を意味するあだ名。皇后専用の産室の壁に赤い大理石を用いたことから、皇帝が即位してから誕生した皇子を意味する。本来はこの条件を満たす皇子はすべて「ポルフュロゲネトス」であるが、コンスタンティノスの場合はレカペノス家の皇帝たち(正帝ロマノス1世のほか、ロマノスの息子たちも共同皇帝となっていた)との対比で特に個人的なあだ名としてこう呼ばれた。</ref>
| 913年 - 959年 || レオーン6世の息子。920年 - 944年は共同皇帝
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| 969年 - 976年 || ニケフォロス2世の甥。ニケフォロスを暗殺して即位。コンスタンティノス7世の娘テオドラと結婚。
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| '''[[バシレイオス2世]]'''ブルガロクトノス”<ref>「ブルガリア人殺し」を意味するあだ名。詳細は[[バシレイオス2世]]を参照。</ref>
| 976年 - 1025年 || ロマノス2世の長男。963年 - 976年は共同皇帝
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* [[マケドニア朝ルネサンス]]
* [[マケドニア王朝]]
 
 
{{先代次代