「コートニー・ホイットニー」の版間の差分

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ホイットニーが指揮して作成された憲法草案は、1946年2月13日、ホイットニー自らの手で、麻布の外務大臣官邸において吉田茂と憲法担当国務大臣・松本烝治に手交。同時にホイットニーは、松本烝治から提出されていた憲法改正要綱(松本甲案)は、「自由と民主主義の文書として、最高司令官が受け容れることは全く不可能」との申し入れを行なった。
 
日本政府は、手交されたGHQ草案に沿って憲法改正方針を決定し、日本案(3月2日案)を作成した。[http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/086shoshi.html  3月2日案]は、「恰モ毬(いが)ノママノ栗ノ如ク到底之ヲ呑ミ込ムコト能ハ」ないGHQ草案を、「一応大ナル毬ヲ取リ一部皮ヲ剥ク程度」にしたものであった(松本烝治手記)<ref>[[佐藤達夫 (法制官僚)|佐藤達夫]]『日本国憲法成立史』第3巻(I994年)有斐閣、 72ページ</ref>。つまり3月2日案は、可能な限りGHQ草案の趣旨に合わせながら起草した日本側憲法草案であり<ref>竹前栄治監修 日本国憲法検証・第1巻『憲法成立史』(2000年)小学館、207ページ</ref>、GHQ草案を単に日本語に訳しただけだという俗説は誤りである。
 
1946年3月4日午前10時、日本政府とGHQは、皇居の壕端に位置する第一生命ビル(旧日本軍東部軍管区司令部、千代田区有楽町)6階の民政局において、草案作成の責任者・ホイットニー臨席の下、草案(松本甲案)の協議を開始、日本政府がGHQ草案の日本語訳を用意していたことが判明した時点で、協議はGHQ草案の検討に移行した?午後6時ごろ、夜が明けるまでの間に確定草案(ファイナル・ドラフト)を仕上げたいとするGHQの意向により、協議は夜を徹して行なわれ、協議開始から32時間後の翌3月5日午後3時ごろに終了、確定草案が出来上がった。