「新開池」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
4行目:
== 歴史・概要 ==
太古の昔、かつて[[大阪湾]]は現在の[[大阪平野]]の奥深くにまで入り込んでいた。しかし[[淀川]]水系や[[大和川]]水系から流される大量の土砂により次第に縮小し、[[淡水湖]]化して[[河内湖]]に、さらに縮小して中世には北東側に[[深野池]](ふこうのいけ)・南西側に新開池という二つの大きな池となっていた。
 
北から流れてくる[[寝屋川]]は深野池に注ぎ、南から流れてくる[[恩智川]]と[[吉田川]]は深野池に、[[菱江川]]が新開池にという流れであった。これらの水は新開池の西端の徳庵から放流され南西の[[放出]]に向けて流れ、そこで大和川の二つの主流である[[長瀬川 (大阪府)|長瀬川]]と[[楠根川]]が合流する形であった。これでは当然水量が多く、この付近では洪水が頻繁に起きていた。特に、新開池の出口である徳庵では河川によって運ばれてきた砂が堆積し、よく洪水が起こっていた。そのため、[[明暦]]元年([[1655年]])に吉田川、恩智川、寝屋川筋四十二ヶ村の申し立てによって徳庵から西の今福までまっすぐの運河が掘られることとなった。これが[[徳庵井路]](現、寝屋川の一部)である。[[寛文]]元年([[1661年]])には新開池の中に堤を作って[[六郷井路]]の水路を開削させ、まもなくその北側にも同じように[[五箇井路]]を開削している。
 
[[中甚兵衛]]らの尽力により、[[宝永]]元年([[1704年]])に大和川の付け替え工事が行われた。その結果、深野池や新開池の水量が減少し、開墾が行える下地が作られた。宝永2年([[1705年]])、大和屋六兵衛と庄屋長兵衛が落札した開発利権を[[鴻池善右衛門|鴻池善右衛門宗利]]が譲り受け、伊勢から農民を入植させて開墾が行われ、[[鴻池新田]]として開発された。大和川付け替え工事でできた数ある[[新田]]の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)だった。