「武功夜話」の版間の差分

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#また『角川日本地名辞典 愛知県』<ref>『角川日本地名辞典 愛知県』pp.1232-1233</ref>には葉栗郡前野村のところに「当村はキリシタンの多い村で、正徳元年の切支丹宗門出村付帳(近藤太郎氏蔵)や享和元年の尾濃葉栗見聞集などの中に当村の記述がある」としており、それらの文献を剽窃したものではないかと思われる。
*[[2010年]](平成22年)に寒川旭(独立行政法人:産業技術総合研究所招聘研究員)<ref>『秀吉を襲った大地震―地震考古学で戦国史を読む』(平凡社新書)、p.47</ref>が『一方、天正地震から半年経った一五八六年八月九日には、木曽川の大洪水が生じて河道が変わり、現在の流路になった。飯田汲事(名古屋大学名誉教授)によると、かつては更木(現・岐阜県各務原市)付近で西北西に向かい、やがて南西方向に一二〇度向きを変えて墨俣(現・岐阜県大垣市)から大藪(現・岐阜県安八郡輪之内町)にいたる流路だった。洪水後は、更木付近から真っ直ぐ西に向かって笠松(現・岐阜県羽島市笠松町)にいたり、そこから南西に流れて祖父江(現・愛知県稲沢市)を経て、南の弥富(現・弥富市)に向かう流路になった。全体として、旧流路の内(東)側に、少し緩やかな曲線を描くような新しい流路が生じている。木曽川は有史以降に何度も洪水を引き起こしているが、河道が変化した唯一の事例なので、直前に発生した天正地震で地形が変わったことが流路変更の原因と考えられている。』と、天正年間(天正十三年十一月二十九日)に起こった「天正地震」で、木曽川の流路が大きく変わり現在の流路になったことを検証している。
{{要出典範囲|date=2016年6月|・「武功夜話」が発見されたとする土蔵であるが、旧庄屋ということで吉田家には土蔵がありそうであるが、近所在住の人(現在は隣町の一宮市在住)の話で、そもそも吉田家には当時「土蔵」というものが無かった。という証言があります。}}これが事実であるならば、なぜ「存在しない土蔵から見つかったという出自から作る必要があったか」疑問が生ずる。
 
=== 肯定側 ===