「三十年戦争」の版間の差分

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長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していた[[ペスト]](黒死病)の影響もあって人口は激減し、交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。伝統的な封建階級は没落し、代わって[[ユンカー]]層など新たな階層が勃興する契機となり、領邦各国が[[絶対王政]]的な[[主権国家]]化した。このような中、求心力を弱めた[[ハプスブルク家]]に代わり[[ホーエンツォレルン家]]が台頭、ドイツ民族の政治的重心が北上し、後世の[[ドイツ統一]]における、[[小ドイツ主義]]の萌芽となった。
 
{{要出典範囲|なお、フランスとスペインの戦いは三十年戦争以後も継続し({{仮リンク|[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|en|Franco-Spanish War (1635–1659)|label=フランス・スペイン戦争}}]])、[[1659年]]、[[ピレネー条約]]によって終結した。この条約は「[[ルシヨン]]、[[サルダーニャ]]、[[アルトワ]]の割譲」「ルイ14世と[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の王女[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]]の結婚」「マリア・テレサは50万[[エスクード]]を持参金とし、その代償としてスペイン王位継承権は放棄」というものであった。この戦争を境としてスペインの覇権は失われ、フランスの覇権の時代が開始された。|date=2016年3月20日 (日) 14:45 (UTC)}}
 
{{要出典範囲|ポーランドは三十年戦争期、終始カトリック教会と連携していたが、同時期にスウェーデン及びロシアと戦争を行っていた。これらの戦争においてポーランドは優位に立っていたが、国内では戦争の継続は議会によって阻止され、三十年戦争にも参戦せず、1632年のグスタフ2世アドルフ戦死による数年間のスウェーデン勢力の減退期においても参戦は行われなかった。ポーランドはその間国力を維持し続けていたが、やがて近隣諸国の野心と国内の支配と統治の失敗により、1648年以降、「[[大洪水時代]]」という未曾有の内戦により衰退の時代に入り、東欧一帯のポーランドの覇権は失われた。また、この時代のカトリック勢力の優位による宗教の寛容も、戦火の拡大とポーランドの疲弊によって失われた。|date=2016年3月20日 (日) 14:45 (UTC)}}