「西牟田氏」の版間の差分

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西牟田氏は藤原北家流で関白藤原道隆の後裔とされ、西牟田彌次郎家綱入道藤原行西が、幕府の命を受けて[[嘉禎]]年中(1235-1238)、豆州三島より筑後国三瀦郡西牟田村に地頭として来住し、堡を築き、村の名前の「西牟田」を以て称号としたという<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)248頁</ref><ref>矢野一貞『校訂筑後国史』中巻(名著出版)113~116頁</ref><ref>『寛元寺文書』「内田氏過去帳」</ref>。
 
筑後市西牟田の寛元寺は、西牟田入道行西の願によって[[寛元]]元年(1243年)に建立され<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)194頁</ref>、三潴郡大木町蛭池の三島明神は行西が伊豆国三島から勧請したものとされる<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)158頁</ref>。同様に、筑後市西牟田地区の三島宮(現在の三柱神社)<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)155頁</ref>、鷲寺地区の霊鷲寺<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)188頁</ref><ref>寺の開基帳では西牟田永家の開基とされている</ref>、流地区の天満神社<ref>『筑後市神社仏閣調査書第三集』流区5頁</ref>、[[正覚寺|正覺寺]](現在は廃寺)<ref>杉山正仲『校訂筑後志』(本荘知新堂)193頁</ref><ref>『筑後市神社仏閣調査書第三集』流区7頁</ref>等も行西の建立と伝えられている。
 
==== 元寇・弘安の役における西牟田氏====
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