「ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)」の版間の差分

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'''ドイツキリスト教民主同盟'''(ドイツキリストきょうみんしゅどうめい、{{lang-de|Christlich-Demokratische Union Deutschlands, CDU}})は、[[ドイツ民主共和国]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])に存在した[[政党]]。[[ドイツ社会主義統一党]](実質的な[[共産党]])主導の[[ヘゲモニー政党制]]の下に存在する[[衛星政党]]だった。
 
== 結成 ==
[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-P001516, Jakob Kaiser.jpg|thumb|left|150px|ヤーコブ・カイザー]]
[[第二次世界大戦]]が終結すると[[ドイツ]]は[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍に占領]]された。そのなかで旧[[中央党_(ドイツ)|中央党]]勢力の多くが[[1945年]]のあいだに、ドイツ各地で[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)を結成した。[[ソ連占領区域]]でもCDUが結成され、当初は[[中産階級]][[キリスト教徒]]を代表する政党だったが、{{仮リンク|ヤーコブ・カイザー|de|Jakob Kaiser}}など[[キリスト教左派]]([[キリスト教社会主義]])の[[政治家]]が台頭していく。
 
== 衛星政党化 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H0910-0600-001, Berlin, 1. Deutscher Volkskongress.jpg|thumb|225px|オットー・ヌシュケ(右)。中央は社会主義統一党の[[ヴィルヘルム・ピーク]](後の[[ドイツの国家元首一覧#ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家元首|東ドイツ大統領]])、左は[[ドイツ自由民主党]](LDPD)のウィルヘルム・クルツ。背後にいるのは社会主義統一党の[[ヴァルター・ウルブリヒト]](後の第一書記、国家評議会議長)、と[[オットー・グローテヴォール]](後の[[ドイツの首相|東ドイツ首相]])]]
しかしソ連占領区域で[[ドイツ共産党]](KPD)と[[ドイツ社会民主党]](SPD)が合同し[[ドイツ社会主義統一党]](SED)が結成されるなど[[スターリン主義]]に基づく[[共産主義]]化が進むなか、[[1948年]]にカイザーがソ連占領区域から追放されると<ref>カイザーはのちに[[ドイツの首相#ドイツ連邦共和国(西ドイツ→再統一ドイツ)「連邦首相」|西ドイツの首相]]となる[[コンラート・アデナウアー]]に並ぶ理論家・指導者であり、アデナウアーの西側偏重・東西分裂促進的な政策に強く反対したが、ソ連軍により解任され、西側に追放された後、アデナウアー政権で[[:de:Bundesministerium für innerdeutsche Beziehungen|全ドイツ問題相]]となる。</ref>、西側のCDUとの関係は切れ、{{仮リンク|オットー・ヌシュケ|de|Otto Nuschke}}の下で実質的に社会主義統一党主導の[[人民民主主義]]体制傘下の衛星政党となった。さらに、それでも[[農村]]部には独自の組織力を有していたCDUの勢力をそぐことを目的に、[[ソ連軍]]および社会主義統一党は[[1948年]]にわざわざ[[ドイツ民主農民党]](DBD)を結成している。公式には[[1949年]]の[[ドイツ民主共和国]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])建国後、[[1952年]]の党大会で[[社会主義]](ここでは[[マルクス・レーニン主義]]のこと)を受容した。
 
東ドイツにおいては、キリスト教民主同盟は[[人民議会_(東ドイツ)|人民議会]]の500議席中52議席を割り当てられ、形式的には勢力を保っていた。しかし、[[ドイツ民主共和国憲法|東ドイツ憲法]]では社会主義統一党が[[党の指導性|国家を指導する]]ことになっており、キリスト教民主同盟が当局や社会主義統一党の施策に反対することはほとんどなかった<ref>[[東欧革命]]の波及以前では[[1972年]][[3月9日]]に[[妊娠中絶]]を認める法案の採決において反対票・[[棄権]]票を出したのが唯一の反対例である。</ref>。党首は国家評議会副議長となり、閣僚評議会副議長(副首相)を出すなど<ref>伸井斌『もうひとつのドイツ』(1983年 朝日新聞社)P173 これは他の3つの衛星政党も同じである。</ref>、完全に体制内の政党となっていた。
 
== ベルリンの壁崩壊から自由選挙での圧勝 ==
[[ファイル:Lothar de Maizière 2011.jpg|thumb|left|150px|ロタール・デメジエール]]
[[1989年]]に[[ポーランド民主化運動]]、[[ハンガリー民主化運動]]の余波を受けて[[東欧革命]]の波が東ドイツに及ぶと、キリスト教民主同盟もその影響にさらされることとなった。東ドイツで[[民主化運動]]が盛り上がり、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]が政権の座を追われ、[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]すると、[[ロタール・デメジエール]]が[[党首]]となり、党は西側の[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]]にならって[[中道右派]]的な[[キリスト教民主主義]]に路線を転換、さらに早期の[[東西ドイツ再統一]]と[[西ドイツ]]の[[通貨]]である[[ドイツマルク]]導入を掲げた。これらの政策により、東ドイツ最初で最後の[[自由選挙]]となった[[1990年]][[3月18日]]の[[1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙|人民議会選挙]]では[[保守政党]]として[[ドイツ社会同盟]](DSU)、[[民主主義の出発]](DA)と[[保守]][[政党連合]]である「'''ドイツ連合'''」([[:de:Allianz für Deutschland|Allianz für Deutschland]])を組み圧勝、デメジエールが東ドイツ最後の[[ドイツの首相#ドイツ民主共和国(東ドイツ)「閣僚評議会議長」|首相]]に就任してドイツ再統一への道をつけた<ref>しかしデメジエールは後に[[シュタージ]](東ドイツ国家保安省)の協力者であった過去が発覚して公職から退かざるを得なくなった。</ref>。
 
== ドイツ再統一と西側の党への合流 ==
[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F084371-0005, Bonn, Besuch Volkskammerpräsidentin der DDR.jpg|thumb|ザビーネ・ベルクマン=ポール(左)。右は[[連邦大統領_(ドイツ)|西ドイツ大統領]]の[[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]]]
選挙後、党所属の[[ザビーネ・ベルクマン=ポール]]が人民議会議長(暫定[[国家元首]])となった。その後、民主主義の出発を合併したうえ、[[10月]]のドイツ再統一に際して西ドイツのキリスト教民主同盟に合流した。
 
== 歴代党首 ==
* 1945 アンドレアス・ヘルメス({{lang|de|Andreas Hermes}})
* 1946–1947 ヤーコブ・カイザー({{lang|de|Jakob Kaiser}})
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* 1989–1990 [[ロタール・デメジエール]]({{lang|de|Lothar de Maizière}})
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 外部リンク ==
*[http://www.chronik-der-wende.de/lexikon/glossar/glossar_jsp/key=christlichdemokratischeunion%252ccduderddr.html Chronik der Wende:Christlich Demokratische Union der DDR (ドイツ語)]
 
== 関連項目 ==
*[[ドイツキリスト教民主同盟]](旧西ドイツ側)
*[[衛星政党]]