「オランダ正月」の版間の差分

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オランダ正月の背景には、8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]による洋書輸入の一部解禁以降、蘭学研究が次第に盛んとなり、この頃には[[蘭癖]]と称されたオランダ文化の愛好家が増加していたことがある。蘭癖らの舶来趣味に加え、新しい学問である蘭学が一定の市民権を得ていたことを受け、日本の伝統的正月行事に把われることなく、蘭学者たちが親睦を深め、自らの学問の隆盛を願い、最新情報の交換を行う集まりとして、以後も毎年行われるようになっていった。
 
ただし、当時使用されていた[[寛政暦]]などの[[太陰太陽暦]]と西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、便宜上、翌年以降は[[冬至]](太陽暦でも太陰太陽暦でもは毎年ほぼ同じ日であり、太陽太陰暦の計算にも使用される)から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。玄沢の子・大槻磐里が没する[[天保]]8年([[1837年]])まで計44回開かれたという。
 
一方、日本で祝宴を開いた1795年1月のオランダ([[ネーデルラント連邦共和国]])では、その国土がフランス革命軍に占領され、オランダ国が滅亡した月である。同時に、オランダ国であった土地で、フランスの衛星国[[バタヴィア共和国]]が建国を宣言した。そして、オランダ国は、1815年に[[ネーデルラント連合王国]]が建国するまでの20年間、地球上に存在していなかった。すなわち、蘭癖の日本人は、オランダ滅亡と同時に存在しないオランダの正月を祝い始めたことになる。
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