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明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。[[東洋宣教会]]の教師・[[笹尾鉄三郎]]に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。
 
柏会は[[大正]]5年([[1916年]])10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、[[江原万里]][[金沢常雄]]、矢内原忠雄、三谷隆正、[[三谷隆信]]、前田多門らが、純信仰的集団の[[エマオ会]]を創設した。
 
これらの会は、大正7年([[1918年]])から内村が[[再臨運動]]を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる[[柏木兄弟団]]になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年([[1923年]])12月には[[足洗会]]という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「[[霊交会]]」という名前になり長く続くことになる。