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[[ファイル:Statue of Hosokawa Tadaoki and Hosokawa Gracia.jpg|thumb|300px|細川忠興・ガラシャ像([[勝竜寺城]]公園内)]]
 
'''細川 ガラシャ'''(伽羅奢、迦羅奢)<ref>{{Refnest|group="注釈"|「伽羅奢」の表記は日本史大事典・第6巻 167ページ(平凡社 1994年)、日本女性人名辞典 945ページ(日本図書センター 1998年)、世界大百科事典・第26巻 292ページ(平凡社 1988年)による。なおウェブサイト「肥後細川藩拾遺」に紹介されている「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」(山本秀煌 1930年)には、「細川家記」からの引用として「迦羅奢」と表記されている。</ref>}} / '''明智 珠'''('''明智 玉''')(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、[[永禄]]6年([[1563年]]) - [[慶長]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1600年]][[8月25日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての女性。[[明智光秀]]の三女で[[細川忠興]]の[[正室]]。[[諱]]は「'''たま'''」('''珠'''、'''玉''')または'''玉子'''(たまこ)。[[キリスト教]]信徒([[キリシタン]])として有名。
 
子に、[[於長]](おちょう:[[前野景定]]正室)、[[細川忠隆|忠隆]]、[[細川興秋|興秋]]、[[細川忠利|忠利]]、[[多羅]](たら:[[稲葉一通]]室)などがいる。
 
=== キリシタンへ ===
天正12年([[1584年]])3月、信長の死後に覇権を握った[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した<ref>{{Refnest|group="注釈"|忠興は家臣2名に珠を昼も夜も見張らせた。珠は近親者以外からの伝言は受け取れず、近親者からのものであっても2人の検閲を受ける必要があった。また、家を訪問してきた者と外出した女性を全て記録して書面で提出させ、外出した女性については誰が許可したのか、どこへ行ったのかまで記録させた。珠も含めた屋敷内の女性は各自が許可された部屋にしか行くことができず、領域を接していない人間と会話することはできなかった<ref>『完訳フロイス日本史3』第62章</ref>。}}。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が[[高山右近]]から聞いた[[カトリック教会|カトリック]]の話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた。
 
天正14年([[1586年]])、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年([[1587年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[3月19日]])、夫の忠興が九州へ出陣すると([[九州征伐]])、彼女は[[彼岸]]の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき[[復活祭]]の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で[[洗礼]]を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので<ref>{{Refnest|group="注釈"|その場にいたグレゴリオ・セスペデス司祭は、彼女が秀吉の側室ではないかと疑った。(<ref>ヘルマン・ホイヴェルス著「細川ガラシャ婦人」所収、アントニオ・プレネスティノの書簡より)</ref>。}}、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、[[駕籠]]で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
 
再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉が[[バテレン追放令]]を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していた[[イエズス会]]士[[グレゴリオ・デ・セスペデス]]神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、[[ラテン語]]で恩寵・[[神の恵み]]の意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という[[洗礼名]]を受けた。
九州から帰ってきた忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では[[離婚]]は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[8月24日]])、忠興は[[徳川家康]]に従い、[[会津征伐|上杉征伐]]に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた<ref>『イエズス会日本報告集 第I期第3巻』日本諸国記より</ref>。
 
この隙に、西軍の[[石田三成]]は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の[[小笠原秀清]](少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「''散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ'' 」と記している。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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