「熊本ラーメン」の版間の差分

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熊本ラーメンは、3人の男たちの友情から生まれたラーメンであるといえる。戦時中のこと、[[台湾]]出身の留学生劉壇祥(のちの重光孝治)は[[宮崎県立宮崎工業高等学校|宮崎工業高等学校]]に通っていたが、戦況の悪化により実家からの仕送りが途絶えていた。そんな劉に救いの手を差し伸べたのが木村一である。木村は劉を自宅に迎え、家族同然に遇した。劉はその後[[熊本大学]]に進学し、卒業後は甘味料の製造で財を成したのち、木村や山中安敏とともに不動産業を始める<ref name="okuyama8687"/>。
 
しかし、彼らに思いもよらない転機が訪れることになる。昭和26年([[1951年]])に北部九州を襲った豪雨によって不動産業は頓挫。新たなビジネスを探していた3人は、ふとしたことから昭和28年([[1952年]])に国鉄[[高瀬駅]](現・JR[[玉名駅]])前に出店し人気となっていたラーメン店「三九」([[久留米市]]で白濁豚骨スープを開発した「三九」の支店<ref name="okuyama8687"/>)を訪れ、三九のラーメン関心感銘持ち受け、ラーメン店を始めることとなった<ref>{{Cite news |title=玉名ラーメンものがたり 1|newspaper=[[熊本日日新聞]]|author=武田愛一郎 |date=2006-04-07|accessdate=2016-06-07}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nishinippon.co.jp/feature/ramen_history/article/178133|title=ラーメン のれんのヒストリー:<17>大水害が熊本の「源流」生む こむらさき(熊本市中央区)|publisher=[[西日本新聞]]|date=2015-06-26|accessdate=2016-06-07}}</ref>
 
まず昭和28年([[1953年]])秋に木村が「松葉軒」を熊本市内に、昭和29年([[1954年]])には山中が「[[こむらさき]]」をオープンさせる。劉は昭和30年([[1955年]])から「桂花」で調理を務めていたが、のちに独立して「[[味千ラーメン|味千]]」を創業する<ref name="okuyama8687"/>。ニンニクをラーメンに入れるという手法は「桂花」時代に重光が開発したものである<ref name="okuyama8687"/>。